ふるさとと私

 

先週二十日の金曜日、
故郷秋田での講演会に臨み、無事終了しました。
講演会の前に、
詩集『鰰 hadahada』中の「安心の川」をつかった授業
を参観させてもらいました。
女の子が立って発言したとき、
わたしを案内していた校長先生が、
彼女が伊藤陽子先生のお孫さんであることを、そっと教えてくれました。
伊藤先生は、
わたしが小学一年生の時の担任で、
『鰰 hadahada』の巻末に
「陽子先生 あとがきに代えて」にも書いています。
そのことが引き金になったのかどうか。
授業を見ているうちに、
だんだんと、
なぜわたしは子どもたちの後ろで見ているのか、
わたしも小さな子ども用の椅子に座って、
先生の話に集中し、
なにか思うところがあったら、
恥ずかしがらずに、
手を挙げて、
発言しているはずでは、
ないのか、
か、
そんな感情がふつふつと湧いてきました。
ふるさと、古里の「古」は、
白川静さんに言わせれば、
「さい」(「口」の字の上の二つの角がすこし上部に出ている)に盾。
いのりの言葉を入れる容器「さい」に入っている祝詞の霊力
が持続するように、
外からの攻撃を防ぐ、ことが本来の意味。
意味からすれば、
過去の事象に用いられるだけの文字ではなく、
未来永劫にわたる。
すると、
ふるさととは、
そこに生まれ暮らした人の生活から醸し出される祈りが
過去から未来にわたって永遠につづく場所、
ということになりはしないか。
インフラの整備、オール電化とは違う発想が、
文字の成り立ちから見えてくる気がし…。
授業参観で感じた揺らぎそのままに、
午後の講演の際、
生徒からの質問にこたえる形で、
そんなことにも触れました。
いい時間、いいきっかけを与えていただきました。

 

・ふるさとの講演の日の息白し  野衾