『ソクラテスの弁明』再読

 

若いときに読んだ本を年を重ねてから改めて読むと、
若いときとはまたちがった感想を持つ
というのはよく目にするし、
じぶんでも、そう感じることが間々あるわけですけれど、
プルタルコスさんの『英雄伝』に、
脇役のようにではありますがプラトンさんが登場したこともあって、
久しぶりに『ソクラテスの弁明』を読みました。
予想どおり、感じ方がちがいました。
いろいろありますけれど、
以前読んだときは、
まだ職業に就いていないときでしたから、
ソクラテスさんが手に技能を持つ人に会いに行っての感想は、
手工者を職業人とひろく捉えて読んでみると、
ぐっとこころに刺さるようで、
このごろの自分のあり様を反省せずにはいられません。

 

それから最後に、わたしは、手に技能をもった人たちのところへ行きました。
それは、
わたし自身にはほとんど何の心得もないことが直接よくわかっていたし、
これに反して彼らのほうには、
いろいろ立派な心得のあることが
やがて明らかになるにきまっているとわかっていたからです。
そしてこの点において、
わたしは欺かれなかったわけで、
彼らは、
わたしの知らないことがらを知っていて、
その点でわたしよりもすぐれた知恵をもっていました。
しかしながら、アテナイ人諸君、
わたしには、
このすぐれた手工者たちもまた、作家たちと同じ誤りをおかしているように思えたのです。
つまり、
技術的な仕上げをうまくやれるからというので、
めいめい、
それ以外の大切なことがらについても、当然、自分が最高の知者だと考えている
のでして、
彼らのそういう不調法が、
せっかくの彼らの知恵をおおい隠すようになっていた
のです。
そこでわたしは、
神託にかわって、わたし自身に問いなおしてみたのです。
わたしにとっては
どちらが我慢のできることなのか、
いまわたしは彼らのもっている知恵はすこしももっていないし、
また、
彼らの無知も
そのままわたし自身の無知とはなっていないが、

これはこのままのほうがいいのか、
それとも、
彼らの知恵と無知とを二つとも所有するほうがいいのか、
どっちだろう? というのです。
これに対してわたしは、
わたし自身と神託とに、
このままでいるほうがわたしのためにいいのだ、
という答えをしたのです。
(プラトン[著]田中美知太郎・藤澤令夫[訳]『ソクラテスの弁明 ほか』
中公クラシックス、2002年、pp.22-23)

 

「無知の知」に関することですが、
いまわたしが読んで思うのは、職業上の年数を重ねたことによる驕り、
についてです。
ひと様のことでなく、じぶんのこととして。
このブログに書くことまで疑わしくなってきます。

 

・滴々と中心を指すつららかな  野衾