『論語』の影響力

 

小竹文夫さん、小竹武夫さん共訳の『史記』がおもしろかったので、
ひきつづき小竹武夫さん訳の『漢書』を読んでいます。
原著者は班固さん(32~92)。後漢の歴史家。
名のみ知っていて読まずに過ぎている本が山ほどあるわけですが、
今回じっさいに読んでみて、いちばんに感じたのは、
『論語』の影響力の大きさ。
『漢書』が書かれたのは、
孔子が亡くなってから五百年以上たっているのに、
随所に『論語』からの引用が多くあること。
じぶんで、ここは『論語』を踏まえての記述であるなと分かるところもあれば、
小竹さんの注によって、
そうと教えられる箇所もあります。

 

道というものは人の力で弘ひろめることができる、
しかし天命はこれを如何いかんともすることができない。
配偶における愛情は何とはなはだしいものであろうか、
君といえども臣の好むところを、父といえども子の好むところを移せないのであり、
まして目下めしたの者ではなおさらのことである。
すでに睦むつまじくても、
あるいは子をもうけることができず、
もうけてもその終りを全うすることができないのは、
何と天命ではないだろうか。
孔子が天命について語ること稀まれであったのも、
思うに言いあらわしがたかったからであろう。
天地人における有形無形の変化に通暁する者でなくては、どうして性命を識
ことができよう。
(斑固[著]小竹武夫[訳]『漢書8』ちくま学芸文庫、1998年、p.130)

 

小竹さんの注によれば、
引用したところのさいしょの一文は、『論語』衛霊公と憲問の孔子の語から。
さいごのほう
「孔子が天命について語ること稀であった」は、
『論語』子罕。また公冶長の子貢の語。

 

・薄日来て山ふるはせる蕨かな  野衾