バランス感覚

 

プルタルコスさんの『英雄伝』には、あたりまえといえばあたりまえですが、
百パーセントの善人も百パーセントの悪人も登場しません。
『英雄伝』というくらいですから、
はなっからの悪い奴は出てきませんが、
どんなにヒーローと思われる人にも悪いところがあると、
一般論として述べてはいなくても、
例外なく「英雄」たちの欠点を漏れなく描いていて、なるほどと思わされます。
ちょっと『鬼平犯科帳』を思い出しました。
こちらは英雄でなく、悪人が多く登場する小説。
何巻目だったか忘れましたが、
街道で流行りの茶店があることを知った主人公の火付盗賊改方長官・長谷川平蔵さんが、
ピーンとくるシーンがあります。
たしかそのとき、
「百パーセントの悪人はいない。どこかでいいことをしたくなるのが人間」
みたいなことを語る。
長谷川平蔵さんの人間観は、
作者である池波正太郎さんの人間観であろうと思います。
その意味で、
『英雄伝』のプルタルコスさんを論じた松原俊文さんの文章に、
ふかく共感します。

 

プルタルコスはしかし、どのような教訓を伝えようとしたのだろうか。
そもそもどういった政治を理想としたのか。
彼は博聞にして多弁であるにもかかわらず、
どこかとらえどころのない人である。
お喋り好きな田舎の有閑紳士然とした作家像とは裏腹に、
帝国中枢の要人らと少なからぬつながりを持っていた。
『トラヤヌス帝への教訓』や『王と将軍たちの名言集』冒頭の帝への献辞といった
彼の作と伝えられる書き物の存在は、
それだけの地位と見識を有した人士と見られていたことの証しである。
けれどもその政治信条については、
現実主義、折衷主義といったものから、
プラトン的哲人統治を求める理想主義まで諸々の見方がある。
ただ彼は一貫して、
政治を移り気な民衆対エリートという構図でとらえ、
扇動と不和と革命を憂えた。
その彼が、
まさにそれらをローマに持ち込んだ張本人と久しく見られていたグラックス兄弟を、
理想に倒れた悲劇の主人公に仕上げたのかなぜか。
この狭い紙面で到底語り尽くせるものではないが、
ひとつ一般論を述べるなら、
『英雄伝』の著者は単純な白黒で人物を描くことはしない、
ということである。
彼は
キケロやブルトゥスのようなギリシア的素養を積んだ人々を手放しで持ち上げたりしない
し、
マリウスやアントニウスといった「粗野」なローマ人であっても
生来の徳性を認めないわけではない。
小カトーの個人的美徳を称えつつも、
盲目的な理想主義はかえって巨悪を利すると断じた。
そしてカエサルの権力欲に否定的でありながら、
それが生み出した専制政治は国家の病弊に対する処方であると考えていた。
『英雄伝』に描かれる人物の魅力のひとつは、
そうした多義性にある。
(松原俊文「プルタルコスとローマ革命」、
『西洋古典叢書月報141』京都大学学術出版会、2019年、p.5)

 

・白さより青さ際立つお元日  野衾