計画変更

 

わたしが持っている岩波文庫の『哲學の慰め』は、昭和13年11月初版、
その第8刷(昭和25年12月)。
そうとう茶色く変色し、
たまにぱらぱらめくって眺める具合でいたところ、
今年、
京都大学学術出版会から新訳で出版されたことを知り、さっそく求めました。
読む順番がきたら読もうと思い、
とりあえず、
本に挟んであった月報だけ見てみようかな、
と読み始めたのがいけない。
永嶋哲也さんの「救済としてのコンソラチオとその裾野の広がり」
により、
この本を先に読みたい!
の気持ちが勃然と湧き起こり、読書慾が俄かに刺激されました。

 

コンソラチオ
(ボエティウス『哲学のなぐさめ Consolatio Philosophiae』を以下、
こう呼ぶことにする)に関して、
少し前まで西洋では聖書に次ぐベストセラーであったということはよく言われる。
つまり聖書と同等というほどではなくとも、
それなりに「教養ある者なら誰でも知っている本」
であったことを意味する。
そのことをC・S・ルイスはThe Discarded Imageの中で
「ほぼ二百年以前のころまでは、
ヨーロッパのいかなる国においても教養のある人で
この作品を愛さない人を見出すのは困難であっただろうと思う」
と表現している。
(C・S・ルイス『廃棄された宇宙像』山形和美監訳、八坂書房、二〇〇三年)
しかし日本ではどうであろう。
一部の目利きが早い時期から翻訳に取り組み
(岩波文庫に収められた畠中尚志訳の初版は昭和一三年、つまり一九三八年である)
本邦での紹介に尽力していたことには感服という言葉以外思い付かないが、
残念ながらその裾野はあまり広がらなかったし、
現在でも広がっていないと思う。
そのような事態に対する嘆きについては、
現在、この文章を読まれている諸氏ならば共有していただけるのではないだろうか。
ところで、
日本においても誰もが知る外国の書籍の一つとして
『ロミオとジュリエット』
が挙げられる。
シェイクスピアの原文とまではいかなくても、
いく種類もある日本語訳のどれかを読んだことがある人も少なくないだろう。
しかしその『ロミオとジュリエット』
のなかで
コンソラチオがかなりあからさまにほのめかされているのにはお気づきだろうか。
物語が悲劇的結末への階段を登り始めたあたり、
キャピュレット家のティボルトを殺してしまったモンタギュー家のロミオに対して
ヴェローナの大公が下した罰の判定を、
フランシスコ会の修道士ロレンスがロミオに伝えるシーンである
(第三幕 第三場)。
本来、死刑とすべきところを大公がロミオに温情をかけ
ヴェローナからの追放となった
とロレンスが告げるが、
若く未熟なロミオは激昂し、それは死罪より残酷な拷問、
ジュリエットのいない場所に追放になるくらいなら
いっそ殺して欲しかったと応える。
(『西洋古典叢書 月報158』pp.2-3)

 

もっと引用したいところですが、長くなりますので、ここまでにします。
永嶋哲也さんによれば、
ロミオに語りかける修道士ロレンスのセリフを観劇で聞いて、
その中の「哲学」がコンソラチオをほのめかしていることに気づかない知識人は、
エリザベス朝の時代、一人もいなかっただろう、
とのこと。
ちなみにエリザベス一世は、
自らコンソラチオを英訳しているそうです。
しかし、若く未熟なロミオは、どうやらコンソラチオを読んでいない。
あるいは、
読んでいたとしても
恋に盲目の少年にピンとくるはずはなかった。
は~。
宜なるかな、であります。
というようなことでありまして、
読書の計画を大きく変更せざるを得ません。

 

・明滅す賢治もゐたり冬の星  野衾