ことばを測る

 

かつて青江三奈さんという歌手がいました。
「伊勢佐木町ブルース」が大ヒットし、NHK紅白歌合戦に出場するなど、
当時、歌う姿をよくテレビで見たものです。
伊勢佐木町モールには歌碑もあります。
さて、
八十六歳で亡くなったわたしの祖母は、
青江三奈さんがテレビに出てくると、
しみじみ「このひとはりっぱな人だ」と、だれに言うでもなく、ポツリと言った。
それ以上、なぜそう感じるのかを説明してくれなかったし、
家族のだれもそれを問い質しませんでした。
そして、
また青江さんがテレビ画面に現れると、
「このひとはりっぱな人だ」。
あれからすでに半世紀以上たっている。
青江さんも、祖母も、すでにこの世の人ではない。
しかし、
ことばをなりわいとしているせいもあってか、
祖母が青江さんをテレビで見るたびに言い放った「このひとはりっぱな人だ」が、
いまも、いや、いまになって気にかかる。
大きな国語辞書を開いて「りっぱ」の項目を見ると、
①から始まっていくつかの意味が書いてある。
それは、だいたいわたしが知っている「りっぱ」の意味だ。
意味を追いながら、
声のトーン、それを言い放つときの表情と併せ、
祖母の「このひとはりっぱな人だ」を思い浮かべると、
辞書に書いてある説明のどの意味も
しっくりこない。
おそらく、
生前、祖母に直接問い質したとしても、
こたえを得ることはできなかったのではないかと思う。
そこで考えた。
祖母の「りっぱ」の意味を考えることは、
辞書的な意味を超えて、
考えつづける、そのこと自体に、むしろ意味があるのではないかと。
おばあちゃん、
どうして青江さんのことをりっぱだと思うの?
それは、
家が貧しくて小学校へも行かせてもらえなかった祖母の人生がかかっているのだと、
そんなふうにすら思えてくる。

 

・ストレスが腸にまで水の秋  野衾