ロックさんと聖書

 

小学校から高校までの教科書には、
おぼえておかなければいけない、
試験に出そうな人の名まえがゴチック体の黒黒した太い文字で記されていました。
それを、
楔形文字みたいな言い方で、
黒太文字(くろふともじ)と称していた友だちがいたっけ。
さいしょ、なんのことかと思ったよ。
黒くて太い文字だから、くろふと文字、まあ、
そう言われればそうに違いないけど。
それはともかく。
黒太文字で昔おぼえた人の書いた本や、
その人の伝記を読むと、
学校の先生から習ったときの印象とはまた違った印象をもつことが多く、
いちばんは、
身近に感じられるようになることかな。
ジョン・ロックといえば、
タブラ・ラサ。
生まれたばかりの人間の心は白紙みたいなもので、
その後の経験によって、いろいろいろいろ、
あらゆる観念が獲得されるようになると主張した…。
なんてことしか知らないわけですが、
たとえば岩波文庫の『人間知性論』を読み始めると、
すぐに『聖書』にある文言がさりげなく引用されていて、
それが幾度か目にしたものであったりすると、
これまで呼び捨てであったジョン・ロックに急に親しみをおぼえ、
ジョン・ロックさん。
『聖書』のどこかといえば、
「箴言」第20章27節
「人の魂は主のともしびであり、人の心の奥を探る。」
は~。そうですか。
ここか~。
『人間知性論』の訳者・大槻春彦さんによれば、
この句は、
ロックさんの敬愛したベンジャミン・ウィチカットさんが好んだ句
だそうで、
『人間知性論』の第4巻第3章第20節にも引用される、
とのことですから、
さっそくその箇所を見てみた。
たしかに。なるほど。
学校時代に習ったことを改めて勉強し直すことの味わいが、
こういうところにもある気がします。

 

・いわし雲吾のこころのみ見てゐたり  野衾