嫌いな人ともつきあう

 

子どもの頃からいまだに、これといった方法が見つからないことのひとつに、
嫌いな人とどうやってつきあうか、という問題がありまして。
どんな場所に行っても逃れられないことながら、
隠しても隠し切れないし、
相手だってわたしを嫌っているかもしれず、
相性もありますから、
ほどほどの付き合いで勘弁してもらい、なるべく避けて付き合わないようにする、
ぐらいが無難かな、とも思います。
ところが、
そういうやり方、浅知恵ではない方法で道を切り開いた人がいました。

 

修道院の中には、もちろん仇はおりませんが、やはりここにも、
自然に好きな人と嫌いな人がありまして、ある人の側には知らず知らずひきよせられ、
ある人には回り路をしてでも会うことをさけたりいたします。
……以前、
何かにつけ事々に私が不快の感を抱かずにはいられなかったひとりの修道女
がおりました。
それには確かに悪魔の手が加わっておりまして、
私はその悪魔にあやつられて、
彼女の嫌な点ばかりを見ておりました。
どうかしてこの自然の隔意に打克うちかちたい、
そうだ愛はただ心に蔵おさめておくばかりでは足らず、
行為に表わさなければならないと思い付きましたので、
私は全力を尽して、
この姉妹を最愛の友を扱うように扱いはじめました。
そして彼女に出会う度たびにその為に祈り、またその功績の凡すべてを
主の前に数え並べました。
すべてどのような名匠もおのれの手の業を讃えられて喜ばぬ
ことはございません。
霊魂の名匠にいます主も、
私がただその御手の業の外形ばかりを見ず、
主が住居として選び給うた内なる聖所まで見透して、
その美を賞め讃えたことを、たしかに嘉よみしたもうたことと存じます。
私にそのような自己抑制の機会を備えてくれた姉妹のため、
ついにはただ祈るだけでは心足らず、
私は彼女にできるだけの奉仕を献げ、また不愉快な返答をしそうになるときは、
大急ぎでほほえみ、
又談話の向むきをかえるように致しました。
そしてついにこれら凡ての戦闘に勝利の日があけました。
彼女は或日、
真によろこばしげなほほえみを浮べて申しました。
「テレジア童貞よ、
私のうちに、何かあなたをそれほどひきつけるものがあるのでしょうか?
まあ、おめにかかるごとに
何ともいえぬ御親切なほほえみで迎えていただきますので……」。
ああ、
私の心をひきつけるもの、
それは彼女の霊の奥ふかきところに住み給う主イエス、
もっともにがきものをも甘きにかえ給う主イエスでございます。
(大塚野百合・加藤常昭[編]『愛と自由のことば 一日一章』日本基督教団出版局、
1972年、p.345)

 

引用した文章は「リジューの聖テレーズ」とよばれた、
マリー・フランソワーズ・テレーズ・マルタンさんのことば。
1952年、新教出版社から刊行された宮城春江さん訳の『小さき花』から
とられています。
テレーズさんは、フランスのカルメル会の修道女で、
1873年に生まれ、1897年に亡くなっています。
24年の人生でした。

 

・悲しさの底の無音を鈴に秋  野衾