こころが写される

 

一冊の本を集中して読む読み方に対し、
大部の本をまいにち少しずつ読む方法がありますが、
『心を新たに ウェスレーによる一日一章』
は、そうしたたぐいの本で、
書名にあるとおりの形で読みすすめ、ことしで五回目になりますが、
毎回グッとこころに沁みてきたり、刺さったりすることばがあるかと思えば、
五回目にして初めて目に留まり、
こころが凪いでくるような、そういう文にでくわすことがあります。
そのときどきの、
読むこちら側のこころが写されているのか、
と思います。

 

真実の信仰者の肉体の苦悩から来る悲しみや苦しみの原因は何でしょうか。
使徒は明確に
「あなたがたは……今しばらくの間、
いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが」〔一ペト四6〕
と語っています。
「いろいろな」というのは多くの種類、無数という意味です。
数え切れない状況の中には、
それぞれ異なった多様性や違いを見せるかもしれません。
この多様性、相違はそれらに対抗することをより困難にします。
これらの中には肉体的な混乱、
特に突然の病や激しい痛みがあります。
一〇〇〇人のうち一人は、
他人のようには痛みを感じない体質を持っているかもしれません。
しかし、
一般的に痛みは悲惨であり、患者を打ちのめすものです。
神の恵みにおいて彼らが忍耐していたとしても
心は苦しく、
心が体に同情を示しているのです。
長く続くすべての病も、
痛みを伴わなくても同じ効果をもたらします。
同じことは、神経の混乱にも言えます。
そして信仰は本来の体質を覆えすことができません。
自然から起こる原因は
自然の結末をもたらすのです。
たとえ信仰があっても熱があると脈拍が上昇するように、
病的興奮による病にかかると心がしぼんでいくことを防ぐことはできません。
もう一度言いますが、
不幸や貧困がつむじ風のようにやって来る場合、
それはわずかな試みと言えるでしょうか。
子供たちのために食糧や住居を持つことができない彼らは
どうしたらいいのでしょうか。
信仰を持っている人たちでさえ、
それが憂い以上のものを引き起こさないことに驚きを禁じ得ません。
(ジョン・ウェスレー[著]A.ルシー[編]坂本誠[訳]
『心を新たに ウェスレーによる一日一章』教文館、2012年、p.133)

 

この本の「11月8日」の文章に、
これまでとちがった感想をもったことのひとつの要因として考えられるのは、
先日DVDで観たヴィットリオ・デ・シーカ監督の映画『自転車泥棒』
の強烈な印象です。
『自転車泥棒』、アンドレ・バザン、聖骸布、
またさらに、
わたしの身体というイメージが動けば、まるで万華鏡を動かしたときのように、
世界全体の景色が変ると言ったベルクソンの言説
まで思い出され、
そういう連関のもと、
文の風景が変ったのかな、とも思います。

 

・貝殻やことば無き世を秋の風  野衾