写真を見る喜び

 

子どもの頃から、写真が、カメラがなんとなく好きでした。いまも。
どうして写真が、カメラが好きになったのか
と思うことがあります。
わたしの記憶にはまったくないのですが、
叔父や叔母から聞いた話によると、
幼いわたしは、
じぶんの両手の指で空中に四角をつくり、それをカメラに見立て、
人に向けて「パチッ」と口にしていたのだとか。
それを面白がり、幾度も繰り返していたと。
想像するに、
先年亡くなった叔父が若い頃からカメラを持っていて、
その叔父になつき、
可愛がってもらってもいましたから、
それかな、とも思いますけれど、よく分かりません。
弊社でいくつか写真集を出していますが、
写真とカメラへの興味は、
意外と、こんなところにあったのかと思わないでもありません。

 

フォックス・タルボットは、
写真のうちには撮影者すら知らなかったものが含まれていること、
つまりは
撮影者自身にすら何かを発見させずにはおかないことを、写真の「魅力」
だと見なした。
同じく、
第一次世界大戦後のフランス映画の重要人物の一人であるルイ・デュラックは、
コダック社のカメラで撮影された写真が驚くべき啓示をもたらしてくれた
ことに、
大きな喜び――美的な喜び――を覚えた。
「これこそがわたしを魅了したものにほかならない。誰もが認めてくれるだろう。
映画においてであれ、感光板上であれ、
一人の通行人をカメラのレンズで何の気なしに捉えると、
この人物が独特の表情を浮かべているのに突然気づくということが、
ありふれたことではないことを。
X夫人が[……]バラバラな断片のなかでも、
古典的なポーズの秘密を無意識に保ちつづけていることを。
さらに、
木々、水、布、動物が、われわれによく知られた独特のリズムを示すとき、
このリズムがさまざまな動きの集合から成り立っており、
個々の動きを分解して暴き出すと、われわれの心を動かすことを」。
写真の美的価値は、
ある程度まで、
写真の開示機能の結果であるように思われる。
(ジークフリート・クラカウワー[著]竹峰義和[訳]
『映画の理論――物理的現実の救済』東京大学出版会、2022年、p.39)

 

・畦道とぼとぼと空は秋茜  野衾