ボケとツッコミの『シェイクスピア伝』

 

ぶあつい、学術書風の伝記の翻訳書なのに、
読みながら、アハハ…と、つい声を漏らして笑う本というのは、
なかなかありません。
ところが、
河合祥一郎さんと酒井もえさんが共訳された、
ピーター・アクロイドさんの『シェイクスピア伝』は、
何度もアハハ…
が漏れ出てしまいます。
いわば、本文が、お笑いで言うところのボケだとすれば、
訳注がツッコミ。
アクロイドさんは伝記作家とのことですが、
そうとうシェイクスピアさんのことがお好きなのでしょう。
つい力が入ってしまうようで。
ところが、
その「好きのこころ」が災いしてか、
たまに、いや、かなりの頻度で、
「エリザベス朝演劇において、シェイクスピアほど○○な劇作家はいない」
というような言い回しになるところがある。
そこに注番号が付されており、
どれどれ、
と、
訳注を覗いてみると、
「そんな風には言えない。なぜならば~」のような説明がある。
お笑いのツッコミみたいと感じた次第であります。
本文のページが進むにつれ、
だんだん透けて見えてき、
アクロイドさんが断定的なもの言いを始めるや否や、
これはもしかして
と、期待を込めて訳注を見ると、
予想的中、
「それはアクロイドの誤解である」なんてことになる。
いやあ、
伝記で、というか、伝記の翻訳で、こんなに楽しく笑った本はない。
河合祥一郎さんと酒井もえさんに感謝。
「訳者あとがき」を読み、
この翻訳の仕事にこめた訳者のこころが分かった気がします。

 

確かにアクロイドは
シェイクスピア学者なら犯さないような誤りをあまりにも犯しすぎている。
ケンブリッジ大学教授アン・バートンと
シェイクスピア研究所前所長ピーター・ホランドが激怒した
のも無理はない。
バートンはこんな本は語るに足らぬとけんもほろろに斬って捨てたが、
ホランドはTLS紙上で痛烈にこきおろした。
その非難はいちいちもっともである。
その二人がたまたまケンブリッジ時代の私の師であったからというわけではないが、
そうした批判を取り込んで翻訳に生かせないかと私は考えた。
即ち、
明らかに問題のある箇所はそのまま本文中に訳出せず、
場所を移して訳注でその問題点を指摘しつつ訳出すればよいのではないか。
そうすれば、
安心して本文を通読できる。
問題点を訳注というフィルターにかけて漉すことで、
和書として純度の高い決定版ができるだろう。
そこまでしてあえてこの本を訳そうというのは、
やはりこの本には伝記作家が紡ぎだす語りの面白さがあるからだ。
伝記の洪水の中で、
重要なのは「いかに語るか」というパフォーマンスにあるだろう。
伝記に何を求めるべきかを考えるとき、
参考になるのは
ジューディス・アンダーソンが『伝記的事実』(一九八四)で指摘するように、
エリザベス朝時代の伝記作家は
客観的事実ではなく主観的真実を描こうとした
という点だ。
ただ無味乾燥な事実の羅列ではなく、
イメージを明確にするのが何よりも肝要だということである。
その点、
二〇〇五年一〇月二三日付けニューヨーク・タイムズ紙で
ジョン・サイモンがこう記しているのは的を射ている
――「『シェイクスピア――ザ・伝記』に一貫した発想があるとすれば、
それはこの芸術家の人物像をはっきりさせようということだ」。
そこで、
一流の伝記作家としてのアクロイド氏の語りの巧みさを味わいつつ、
学術的内容の問題については訳者が責任を負って手を入れて、
安心して読めるシェイクスピア伝記を作ることにした。
詳細な訳注を書くのみならず、
原著にない年表や図版も加え、
索引も充実させるなど新たな工夫を重ねて、
読んで面白く、調べて便利な決定版のシェイクスピア伝記を目指した。
(ピーター・アクロイド[著]河合祥一郎・酒井もえ[訳]『シェイクスピア伝』
白水社、2008年、pp.587-8)

 

・母の背の空行く秋とたぐふかな  野衾