謙虚について

 

秋田の父から電話があり、JAに収めた米がすべて一等米であったとの晴れやかな声。
ただ夏の日照りが影響し、例年に比べ、収穫量は二割減であったと。
このごろは、父と母の姿に、いろいろなことを感じ、
また、考えさせられることが多くありますが、
収穫した米の質と量を告げる父の声は、
晴れやかであると同時に、
それだけではない、
たとえば、ミレーの「晩鐘」を連想させるような響きを含んでいたと思います。
ことし92歳の父は、
六十年ほど日記をつけており、
農業の日々の労働に関してとくに役立てているようですが、
それが功を奏したのか、
二度ほど、
多収穫で表彰されたことがあったはず。
父が謙虚を学ぶのは米づくりを通してであるか
と感じます。
わたしの場合、
それにあたるのは装丁、ということになるでしょうか。
装丁に関する希望を著者に尋ねても、
とくに無いとの答えが多い。
ではありますけれど、
ことばの端端に、
薄い膜が掛けられてでもいる如く、
好き嫌いの好みがなんとなく感じられることが間々あり、
そういうときは、
直接お目にかかって面談するのがいちばん
のようです。
それが叶わないときは電話。
なにが好きで、なにが嫌い、
さらに、
どんなところが好きで、どんなところが嫌い、
また好きの理由、嫌いの理由、
それらについて、
慌てずに、ゆっくり、ていねいに相手の話に耳を傾けていると、
たとえばご本人が、
そうか、
いままで気づかなかったけれど、
自分はこんなことを感じつつ、
好きだったり嫌いだったりしてきたのか、
と話してくださる場合もある。
それは、
装丁についての好みが初めて開かれる瞬間とも言えるでしょう。
しかし、
すべてがそのように進むわけではありません。
努力、精進は大切ですが、
それが100パーセント通用するわけではない
ところに難しさと面白さがあります。

 

・沼を越え一歩一歩の秋を踏む  野衾