「存在の真理」へ

 

「存在」ということば、日常的にも割とつかわれていると思うのですが、
ハイデッガーさんにとっての、となると、
急に身構えてしまいます。
ハイデッガーさんといえば、
なんたって、『存在と時間』の著者ですから。
さて、その「存在」。
目の前の机もノートも本も、スマホもメガネも、コーヒーカップやテーブルクロス、
リンゴやミカン、帽子や腕時計、もう、なにもかにも、
目に見えるもの、耳に聞こえてくるもの、
人間の五感でとらえられるものすべて「存在」じゃないの?
目に見えない「存在」もあるか、
と、
まず考えてみるわけですけれど、
それは、
ハイデッガーさんにとっては、
「存在」でなく「存在者」なんですね。
え!?
そうなの?
なら「存在」は?
ということになります。

 

私たちは、人格的でないさまざまな事象についても、通常、
多様な動作的振舞いを付与して、
これを表現し、
その際なんらの言語的違法行為をも犯してはいないことに、ひとは気づくべきである。
たとえば、
「その風景は、私になにかを語りかけ、
呼び求め、訴え、大切にするように要求している」。
「その荒涼とした土地は、
私を拒絶し、私を近づけさせず、その秘密を打ち明けようとしない」。
さらには、
「樹木の陰から、湖が姿を顕わし」、
「太陽が、雲の陰に姿を隠した」とも言う。
自然ではなく、歴史的現象を例に取れば、
「時代の状況は、
私になにかを語りかけ、呼び求め、訴え、熟慮するように要求している」
とか、
「その歴史的社会的状態は、私を拒絶し、私を近づけさせず、私の関与を拒んでいる」
とか、
さらには、
「さまざまな人生遍歴において、運命が私には姿を顕わし、
あるいはその姿を隠して私には見通せない」とか、
と私たちは語るであろう。
私たちは、そのとき、
たんに擬人的に、隠喩的に語っているのではない。
むしろ、
主観の思い込みを捨て去り、
「みずからを放棄して」〔本書一八頁、訳注(12)〕、
実在と現実の重みをしっかりと受け止めながら、
そうであるよりはほかにない「存在の真実」
を、

そのとき私たちは、
ひしひしと実感しつつ、語り出している
と言わなければならない。
そのとき私たちは「存在の真理」に「触れ(ティゲイン)」
〔本書六〇頁、訳注(140)〕、
いわば実在の経験の原点に立ち、
痛切な実感と身を切られるような切実な「存在経験」において、
もはや引き返すことのできない、
あるいはかけがえのない人生の途上で、
実在の真相に接し、
「有る」ということ、
「存在」ということの、
まさに実相を観て取ったのである。
その観取と洞察が、私たちの言説や行為の根本の基礎を成し、
それなくしては、
私たちの通常の自然的・歴史的・社会的振舞いも成り立たないのである。
この根本的な次元を見つめながら、
ハイデッガーは、
「存在」が人間に対して要求と拒絶を行い、
それに対して、
人間が、
「存在へと身を開き-そこへと出で立ちながら(Ek-sistenz)」、
その「存在の真理」のなかへと、
まさに
「存在へと身を開き-そこへと没入するというありさまで(ekstatisch)」、
関わり、
それを受け止め、
存在へと「聴従・帰属しつつ(gehören)」「耳を傾け・聴き入る(hören)」
と言うのである。
実際、ハイデッガーによれば、
「存在」とは、
「現今の世界の瞬間のうちで、あらゆる存在者の激動を通じて、
みずからを予告してきている(sich ankündigen)」ものなのである。
(本書一一五頁)。
(マルティン・ハイデッガー[著]渡邊二郎[訳]『「ヒューマニズム」について』
ちくま学芸文庫、1997年、pp.381-2)

 

翻訳をふくめ、渡邊二郎さんのハイデッガーさんに関するものを読むと、
ハイデッガーさんが考えていたことが
くっきりはっきりと見えてくるように感じます。
上で引用した文章は、
渡邊さんが訳された『「ヒューマニズム」について』
の解説のなかから。
こうなりますと、
ハイデッガーさんが好んでヘルダーリンさんの詩について語る
のも分かる気がします。
詩のことばにおいて
「存在の真理」へ近づき、存在の牧人となる、
ことになるでしょうか。

 

・鉄臭きオートバイ事故夏の空  野衾