歴史が問いつめる

 

きょうは弟の誕生日で、このブログを書く前にまず弟にショートメールを送りました。
年を重ねると年をかさねた分だけ、
何ごとによらず発見することが少なくなるのかな、
と勝手に思っていましたが、
それはただの思い込みでした。
知ることと発見することはちがうなぁ
というのが、
このごろの発見です。
ザ・ブルーハーツの歌に「青空」があり、
歌詞のなかに
「歴史が僕を問いつめる」というフレーズ
がでてきます。
歴史を学ぶのは「僕」で、
「問いつめる」とすれば「僕」のはずなのに、
ここでは逆転している。
メロディーも好きなので、何度となく聴いています。
こんなふうに考えました。
個人のことでいうと、
人生のどこかで強烈な体験をし、それをうまく乗り越えられなかった場合、
それがしこりとなって、
あとからあとから、
傷口から血がふき出すように、
記憶がよみがえる
ということがあるようです。
個人を超えたもっと大きな集団ではどうでしょうか。
ある時点で酷烈また酷薄な出来事が生じた
とき、
それにどう向き合ったか、
きちんと対応し、
問題解決のために遺恨を残さぬような働きをし解決に至ったか、
そのときは分からなくても、
あとからそれが別の形をとって現れ、
ああ、
あのときのあの問題は、
解決したのではなく、隠蔽しただけであったのか、
と気づくことがありそうです。
そんなふうに考えてみると、
「僕」が歴史を学ぶことのほんとうの意味は、
「僕」が歴史を問うのではなく、
歴史が「僕」に何を問うているのかを見極めることかな、
と、
そんなふうに思います。

 

・弟と予定ばかりの夏休み  野衾