余白のある話

 

哲学者の小野寺功先生と、ときどき電話でながく話をし、またお話をうかがい、
その都度、いろいろ刺激を受けているわけですけれど、
そのことがまた日々考えることの糧になっている
気がします。
野球の栗山英樹さんが「不世出の哲学者」と自著に書いていた森信三さんと
小野寺先生は親しくされていたそうで、
森さんとのエピソードもおもしろく拝聴しています。
そのなかで、
とくに印象にのこっていることが。
あるとき森さんが、
ふかく影響を受けた人のことは、あまりしゃべらないほうがいい、
と仰ったのだとか。
エピソードとしてうかがっただけですが、
その後もたびたび思い出しては想像し、
考えます。
ふかく影響を受ければ受けるほど、
それをしゃべるまえに、まず、ことばにするのがむずかしい。
じぶんのこととして考えてみても、
ひょっとしたら、
じぶんでも気づかないところまでふかく、
ということがあるかもしれない。
だとしたら、
しゃべらないという選択、判断が正しいかもしれない。
しかし、
そこのところを巧く、
余白をのこすような話というのもある気がし。
小野寺先生のお話は、
その都度たのしくうかがいながら、
一方で多くの余白があって、
しばらくするとまたうかがいたくなります。

 

・もの書けば過去も未来も夏の風  野衾