金次郎さんと正造さん

 

二回目の廻村は八月九日から始められた。
金蔵坊下寺桜秀坊から弥太郎・吉良八郎・民次郎とともに廻村に出た。
廻村時には野中包五郎が同道することもあった。
この九日間にわたる廻村は鹿沼・足尾方面二七ケ村に対して行われた。
この廻村は概ね一回目と同様であったが、
金次郎は思わぬ事態に遭遇した。
それは銅山の公害を目の当たりにしたことである。
八月一五日の日記には新梨子村の銅山を見分した折の記録が記された。
案内に立った村役人の言に基づいた記載である。

 

耕地、屋鋪跡共一円に荒地に相成居候処、銅気にて一切作物実法不申候段申立候
『全集』五巻七一五頁

 

「銅気にて一切作物実法不申」と、
金次郎は銅の鉱毒被害の実態を認識することになった。
同様のことは唐風呂村見分の折にもみられた。

 

石井啓兵衛、昨日罷参挨拶に立寄候処、荒銅吹立之分為見候、
其上銅山迄同人案内いたし、
銅吹立候も為見候(中略)但銅山権現前之瀧致一見候事、
右川銅気にて石不残赤錆相成居候事
『全集』五巻七一五頁

 

村人に銅山まで案内されて、
銅山から出る鉱毒で河原の石が赤錆びている実態を目の当たりにした。
この後、
金次郎が公害に対してどのような取り組みをしたのかは不明である。
今後の研究に期待したい。
(二宮康裕『日記・書簡・仕法書・著作から見た 二宮金次郎の人生と思想』
麗澤大学出版会、2008年、p.358)

 

この廻村が行われたのは、嘉永六年。西暦だと、一八五三年。
まだ明治になっていません。
古河市兵衛さんが足尾銅山を買収するのが明治一〇年(一八七七)。
その後、足尾鉱毒事件が起こり、
田中正造さんが歴史の舞台に登場してくる
ことになりますが、
金次郎さんが銅の毒によって作物が育たない実態を目の当たりにした嘉永六年では、
正造さんはまだ一二歳。
「予は下野の百姓なり」を意識するのは、
もう少し後になるでしょう。
金次郎さんと正造さんが、
直接ではありませんけれど、
足尾の鉱毒においてつながっていることを、
はじめて知りました。

 

・三時間かけて友来る半夏生  野衾