大きい文字

 電車のシートに腰掛けていたら、隣りに座った初老の紳士が鞄から徐に本を取り出して読み始めた。茶色の立派な革カバーがかかっていたからニ段組の聖書かなと思った。ところが、ニ段組どころか一段組のそれも14ポイントぐらいの文字でゆったり組まれており、当の本人は言うに及ばず、わたしにもどうぞ読んで下さいとばかりに一文一文が眼に飛び込んでくる。日本の美容業界に貢献したという人にまつわる人間模様を描いた小説のようだった。だれの書いた小説だろう…。黒い餞別…。ふむ。そんなことを考えている自分にはたと気付き、大いに恥じ入った。

旅する水晶

 ヒマラヤの奥地には水晶の洞窟があって、インド人のガイドを雇いそこを訪ねてみたいとヒデさんは言った。にょきにょきと生えたポイントが外の光を浴びて輝きだす。この世のものとも思えない。ハンマーなんかで砕かなくても、あちこち触っていると、かくんと外れるクラスターがある。それは旅したがっている水晶で、それに旅をさせればいい…。
 ヒデさんは子供の頃から石が好きだったそうだ。ヒデさんに会うことがあっても、今までは石の話を聞く機会がなかった。わたしが聞く耳を持たなかったからだろう。最近少し興味が出てきたので話してくれたのかもしれない。「石の基本は水晶です」とヒデさん。石に守られたことも二度、三度あるという。石を浄化するのに湘南の海に一日かけて出かけていたとも。ピュアな話は聞いているだけで心地いい。ヒデさんは版画家。

ケンケンラクダ

 来春刊行予定の『おばさん、辺境を行く!』本文中に入れる写真選びをしていて面白い写真に出合った。ラクダ。砂漠にしゃがみ込んだラクダがカメラに向かってニッと笑っている。片方だけ、でかい歯を見せニッ。どこかで見た顔。どこかで…。そうか。あの傑作アニメ『チキチキマシン猛レース』に出てくる犬ケンケンの笑い方にそっくりなのだ。ふてぶてしく、それでいてちょっぴりシャイな笑いを笑うケンケンラクダ。これ絶対採用! 編集者特権。

不審者?

 先月体験学習に来た女子中学生がその成果を発表するというので招かれ、昨日多聞君と二人で出かけた。
 横浜女学院は山手の山の上にある。分かれ道で多聞君が「こっちへ行ってみましょう」と言った方向が正しく、門の前に着いたのが約束の十分前。「じゃ。ちょっとここで待ってて」と言い置き、わたしはドアを開け門の横にある守衛室に向かった。「春風社と申します」「はい。どういうご用件で?」と、係の守衛さん、完全にこちらを疑っている様子。これこれこういうわけで参りましたと説明すると、急に表情が明るくなり、「ただいま門を開けますから、真っ直ぐ進んでください。左側が駐車場です」。あまりの変わりように驚いた。が、自分の姿形を振りかえり、守衛さんの応対は至極当然と思われた。目深に被った帽子、メガネ、マスク、マフラー、ダウンジャケット、ジーパン。これでは、みずから怪しい者ですと名乗りをあげているようなもの。こんなご時世だし、守衛さんは勇気を出して忠実に自分の務めを果たしただけなのだろう。
 久しぶりの学校。教室の後ろで我が子の発表を聞くお母さんたちに交じり緊張、謹聴。まみちゃんもゆりちゃんも、作った本など示し、体験したことを正確に伝え、お母さんたちからほーという声が洩れた。これがきっかけで、ふたり本当に出版社で働くようになったりして。がんばれ、まみちゃん、ゆりちゃん!

医食同源プラス4

 「狭くても美味しいお店」がキャッチフレーズの小料理千成にて小社忘年会。ほぼ社員同様のスタッフである橋本さんと多聞君も招き、総勢11名。かっちゃーん! 旨かったよー!!
 去年も一昨年も忘年会は小料理千成で鍋料理を中心に、かっちゃんが腕をふるった料理を堪能しているわけだが、その鍋が年々バージョンアップしている。
 写真入りで紹介した2004年は23鍋と勝手に称した。昨年は25鍋。今年はさらに27鍋。この数字、鍋に入っている具の種類。2006年の今年の具は何かといえば、白菜、ねぎ、くずきり、豆腐、えのき、しいたけ、雪れいだけ、せり、しめじ、春菊、紅葉麩、鮭、牡蠣、海老、ほたて、つくね、鰯、あなご、いか、海老つくね、鶏肉、豚肉、蛤、ほっき貝、うずらの卵、ふぐ、かに、以上27品目。すごい! さすが! やってくれるね、かっちゃん! 最後のおやじ、でなく、おじや、スープは薄味なのに、こくがあり、深く濃厚な味わい。一個一個の細胞に医食同源の四文字が染みわたり活気づいた夜だった。
27鍋!

応急処置

 昨日、専務イシバシと横浜駅で夕飯を食べているときのこと。食べ終わった頃を見計らい片付けに来た店員がわたしの左膝に醤油をこぼした。店員は慌てて、「すみません! すみません!」と何度も連呼し、おしぼりで膝についた醤油を拭いてくれた。「だいじょうぶです。気にしないでください」。それで終わり、で良かったのだが、店員は片付け物をしながら上司に話したのだろう。すらりと背の高い美しい女性が、「たいへん申し訳ございませんでした。店長はただいま不在でして、わたしは副店長の**と申します。応急処置をさせてください」。「いえ、だいじょうぶです。もうほら、ほとんどわからないぐらいですから」。「いや、シミになってはいけませんから…」と、美人の副店長は、やにわにわたしのパンツの裾に右手を入れ、あろうことか、するするすると膝頭まで運んだ。そうして、左手でおしぼりを握り、ちょうど布を両手で挟む形にしてぱんぱんと丁寧に醤油のシミを拭き取ってくれた。白魚(たとえが古いか?)のような彼女の左手の指を見ているうちに、わたしは変な気持ちになってきた。「あ、あ、あの、もうけっこうですから。ありがとうございました」。「申し訳ございませんでした」と副店長はもう一度頭を下げレジのほうへ戻っていった。と、間もなくまたやってきて、「些少ですが、これでクリーニングに出してください」。「いや、いいですよ。そんな大したものでもないし。洗濯すれば落ちますから」。「当社規定ですのでお受け取りください。クリーニング代がそれ以上かかるようでしたら遠慮なくお申し付けください」。「そんなにはかかりません。そうですか。では、ありがたくいただきます」
 というような顛末。脚色なく。にしても、ああ、あの白魚のような指。たとえは古いが…。

かもめパン

 そこを通るといつもほんのり甘いパンの香りが漂ってきた。かもめパン。詳しいことは知らないが、横浜のこの地でパンを製造販売しているらしい。横浜街道沿いに小さい店があるが、1本裏手に入ると工場があって配送の車が並んでいる。小さい店は小さいながら、製造販売元のかもめパン直営だろうから出来たてほやほやのパンがいい香りを発するのもうなずける。
 井土ヶ谷の、休日、散歩がてらたまに行く寿司屋で昼食を済ませ、帰りしな、初めてかもめパンの店に入ってみた。どこといって特別な感じはないけれど、おしゃれなチェーン店のパン屋とは違う懐かしさが漂っていて心地よい。ほんのりとしたパンの香りもチェーン店とは違う。店のおばさんが客と楽しげに話しているのも、見ていてなんだかうれしくなる。メロンパンとあんドーナツを買って帰る。懐かしい味に舌鼓を打った。