澁澤さんの論語 2

 

英国監督派の基督教教師皆川輝雄氏や、
また海老名弾正氏の基督教に就ての講義をも聴聞し、
余はそれに共鳴することができぬ故に、半途で止めてしまつた。
余は耶蘇の聖書よりも、釈氏の禅書よりも、
老子の道経よりも、また儒教中の易経よりも、
何よりもかよりも、
論語一部が最も理解(わか)り易く、読めば直ちに処世上に行ひ得られ、
男子にも女子にも、老人にも青年にも、
普遍的に実行せらるる教訓であると信ずるのである。
論語の句は暗記してゐるが、
聖書の句などはとても暗記してをられぬのである。
(澁澤榮一述『論語講義』二松學舍大學出版部、1975年、p.324、原文は旧漢字)

 

澁澤翁の口吻がみえるきこえるようではありませんか。
著者の原稿に向かう際に、
わたしは「~のである」はだいたいカットし、
その旨を著者にも伝えるようにしていますが、
上の文の「~のである」は
なんというか、
なんともいえぬ可笑しみがたたえられていて、
こういう「~のである」ならばカットしたくありません。

 

・花ぐもり世をふる客や五十年  野衾