ヤスケンさん

 

『本の虫の本』という、
本好きにはちょっと気になる本を
パラパラめくっていたら、
二〇〇三年一月に亡くなった
スーパーエディターこと安原顯さんのことがでていました。
この本は五人の共著ですが、
ヤスケンさんに触れているのはオカザキフルホンコゾウムシ(=岡崎武志さん)

 

私が接した中では『海』『マリ・クレール』を
独自のカラーで塗り替えた安原顯が印象深い。
毀誉褒貶あった人だが、
話していて真性の本好きであることが伝わって来た。
その一点で、私はこの編集者を信用した。
(『本の虫の本』創元社、2018年、p.324)

 

安原顯さんを、
ちかくで接したひとたちは
したしみを込めヤスケン、ヤスケンさんと呼んでいました。
ヤスケンさん、
晩年はオーディオ、
それも高級なハイエンド・オーディオに凝り、
高価なものを購入し
自宅につぎつぎセッテンング。
好きなCDを持ってきたら掛けて聴かせてあげるよといわれ、
若い編集者をつれ訪ねたことがありました。
何枚か持参したなかに、
パキスタンのミュージシャンにして
カッワーリの名手ヌスラト・ファテー・アリー・ハーンのCDをわたすや、
にこにことCDプレーヤーにセットしてくれた
までは良かったのですが、
音が鳴りだし、
10秒、
20秒はおそらく経過していなかったと思いますが
「これは、宗教音楽のようなものか?」
といいながら、
止めてしまいました。
ヤスケンさんにはどうも合わなかったらしく。
そのヤスケンさんの本、
春風社からは二冊、
『ハラに染みるぜ!天才ジャズ本』
『乱読すれど乱心せず ヤスケンがえらぶ名作50選』
を上梓しました。
装丁はいずれも矢萩多聞さん。

 

・吾と空をつんざくごとく玄鳥かな  野衾

 

かすれどこまで

 

雑誌はなるべく買わないようにしていますが、
どうしても読みたい記事があって買うことがたまにあります。
気になる記事を読んだあとは
捨ててしまうことがほとんどですが、
たまたま捨てずにいた雑誌を
コーヒー豆を挽くときミルの下に置いたり、
淹れたコーヒーをカップに入れ
雑誌の上に置いたりしているうちに、
表紙の文字と写真が
だんだんかすれてきました。
それでさすがに、
捨てようかとも思ったのですが、
ふと、
このかすれ
どこまで進化(?)していくだろうかと、
へんな好奇心がわいてきて、
捨てずに
毎日かすれ具合を確かめるようになってから
はや一年と数か月。
爪や髪の毛を切らずに伸ばしている仙人
みたいな人がたまにいますが、
その感覚に近いのかもしれません。

 

・花万朶ながめせしまに五十年  野衾

 

ンパのだたふ

 

ふだんあまりパンを食べませんので、
たまに食べるといっそう美味しく感じられます。
このあいだ、
パンを食べながら
ふと思い出したことがありました。
子どものころ、
「ふただのパン」というパン屋さんがありました。
いまあるかは分かりません。
さかさに読むと
「ンパのだたふ」
「ンパ」がおもしろく、
また
「だたふ」というのが
だぶだぶ感があってなんとなく愉快な気持ちになり、
ンパのだたふンパのだたふ。
まるでお念仏。
子どもってふしぎです。
面白いとなったら、
もう、なんでもかんでも。
わたしのなまえをさかさにすると
「るもまらうみ」
弟は「るとさらうみ」
じぶんたちの前にまだ見たことのない海がひろびろ広がっているような。
山は「まや」で川は「わか」
馬は「まう」犬は「ぬい」猫は「こね」
先生は「いせんせ」
伊藤陽子せんせい、川上景昭せんせい、小武海市蔵せんせい。
さかさにすると…
がっこうは「うこっが」
とじぇねわらしはいろんなことを工夫し
こんなことでも面白がった。

 

・養花天たのしきことをさがしをり  野衾

 

さくらの季節

 

桜が咲いております。懐かしい葛飾の桜が今年も咲いております。
…………………………
今、江戸川の土手に立って生まれ故郷を眺めておりますと、
何やらこの胸の奥がぽっぽと火照ってくるような気がいたします。
そうです。
私の生まれ故郷と申しますのは葛飾の柴又でございます。

 

『男はつらいよ』シリーズ第一作冒頭にでてくる車寅次郎のセリフ。
シリーズ中好きな作品はいくつもありますが、
ひとつ上げろといわれれば、
この第一作に尽き、
揺らぐことはありません。
ものがたりがてんこ盛りでありながら、
望郷の念が全編を強烈にけん引し、
結末までまるでジェットコースター(古!)
のようにひかれていきます。
歯切れのいい冒頭のセリフ、
なんど聴いてもよく、
なんども聴きたくなり、
なんど聴いたか分かりません。

 

・花ぐもりかへりみすれば故山かな  野衾

 

澁澤さんの論語 2

 

英国監督派の基督教教師皆川輝雄氏や、
また海老名弾正氏の基督教に就ての講義をも聴聞し、
余はそれに共鳴することができぬ故に、半途で止めてしまつた。
余は耶蘇の聖書よりも、釈氏の禅書よりも、
老子の道経よりも、また儒教中の易経よりも、
何よりもかよりも、
論語一部が最も理解(わか)り易く、読めば直ちに処世上に行ひ得られ、
男子にも女子にも、老人にも青年にも、
普遍的に実行せらるる教訓であると信ずるのである。
論語の句は暗記してゐるが、
聖書の句などはとても暗記してをられぬのである。
(澁澤榮一述『論語講義』二松學舍大學出版部、1975年、p.324、原文は旧漢字)

 

澁澤翁の口吻がみえるきこえるようではありませんか。
著者の原稿に向かう際に、
わたしは「~のである」はだいたいカットし、
その旨を著者にも伝えるようにしていますが、
上の文の「~のである」は
なんというか、
なんともいえぬ可笑しみがたたえられていて、
こういう「~のである」ならばカットしたくありません。

 

・花ぐもり世をふる客や五十年  野衾

 

顔、貌、かお、(^^)/

 

このごろ外を歩いていると、
また家のなかから外を眺めているときとか、
いや、
家のなかのたとえば壁を
何ということもなく見ているようなとき、
あれ!
顔に見えるぞ!
となることがよくあります。
そのたびにスマホで写真を撮り、
このブログにのせてきました
が、
ついこのあいだも家を出て、ああ、いい天気だ、さくらのきせつ、
さてと、
いやいやいそぐことはないか、
ま、ちょっとここにすわってみるかな…

 

目の前のガードレールがこんな感じで。

 

・花ぐもりふるさとを出て五十年  野衾