紺青の拳

 

四歳のときから知っているりなちゃん、
いまは高校三年生。
毎年この時期になると、
名探偵コナンの新作映画を観、
それから
馬車道にある勝烈庵本店まで歩き
盛り合わせ定食をいっしょに食べるのが恒例になっています。
昨年はわたしが体調を崩したため
映画を観ることができませんでした。
ことしはなんとか体調が戻りましたので、
日曜日に『名探偵コナン 紺青の拳』を観てきました。
ストーリーがふくざつで
おじさんには分かりづらいのかと思いきや
そんなことはなく、
二時間があっという間でした。
こんかいはシンガポールが舞台でしたが、
たとえば、
ホテルの高層階の窓から眺める景色、
マーライオンの口から吐き出される水の描写など、
ストーリーに直接関係しないところもきっちりと作りこまれており、
この映画の完成度が
そんなところからも推し量れました。
ところで、
ひと月ほど前から
「名探偵コナン 紺青の拳」のポスターを町で見かけました。
そのたびに
ことしは観に行けるかな
と思いながら通り過ぎたのですが、
ポスターの「紺青の拳」
こんじょうの……
はて、なんと読むんだろう?
近くまで行けば分かったのでしょうけれど、
そうしなかったので、
読み方が分からず、
けん? いや、こぶし?
当日映画館に行き、フィストと読むことを知り、
そのことをりなちゃんに話したら、
笑われました。
が、
けして冷たい笑いではなく、
りなちゃんもわたしが健康を回復して
映画を観に来られたことを喜んでくれているようでした。
勝烈庵の盛り合わせ定食も
かわらずに美味しかった。

 

・初蝶やそこここあちらわたりゆく  野衾

 

夢のはなし

 

しばらく夢を見なかったのですが、
このごろまた夢を見るようになりました。
ほんとうは、
覚えているか否かの違いだけかもしれませんけれど。
きのうのは、
というかきょうのは、
会社で海外へ旅行することになった日の朝、
家を出るまでまだ少し時間があるからというので、
DVDで映画を観ることにした、
そんな場面でした。
海洋物で幼い少年が主人公の映画。
大好きだった父は海難事故により命を落としていました。
遠泳の競技会に出場した少年は、
スタートから猛スピードで泳ぎ始めます。
どうみても
遠泳の泳ぎではありません。
二位以下をぐんぐんぐんぐん引き離していきます。
スピードががくんと落ちたかと思いきや、
少年はまったく動かなくなり
波に揺られています。
映画はまだ途中でしたが、
時計を見ると、
すでに午後二時になっていて、
どう考えても集合時間までは間に合いそうにありません…。
という、
そんな夢でした。

 

・橋頭を飛天のごとくつばくらめ  野衾

 

半仙戯

 

〔唐の玄宗が寒食(かんしょく)の日に、宮女に半仙戯(鞦韆(しゅうせん))
の遊戯をさせたことから。
「半仙戯」は半ば仙人になったような気分にさせる遊びの意〕
ぶらんこ。季節、春。

 

大辞林にのっている説明。はんせんぎ、と読みます。
さらに寒食をひいてみると

 

昔、中国で冬至後一〇五日目の日は風雨が激しいとして、
この日には火を断って煮たきしない物を食べた風習。また、その日。
冷食。かんじき。

 

さて、俳句を読んだり詠んだりしていると、
いろいろな季語にであうことになりますが、
半仙戯という季語があることをこのごろ知りました。
ぶらんこのことですから、
ぶらんこでいいようなものの、
意味は同じでも、
ひとつひとつの言葉は
それぞれ由来や歴史がちがいますから、
意味だけでなく
その由来・歴史を五七五に盛り込みたい欲がでて、
つかってみたくもなります。
ということで。

 

・半仙戯眼下二宮金次郎  野衾

 

なりふりかまわず

 

きのうの夕刻、
JR保土ヶ谷駅の改札を出るや否や、
改札に向かって猛スピードで駆けてくる若い女性の姿が目に入りました。
ミニスカートで
腿を90度ちかく上げています。
うで振りもすばらしい。
おそらく、
いや、きっと
かつて陸上部に所属し、
短距離走の選手だったにちがいありません。
駅構内でのできごとながら、
かのじょの足裏の着地点はあきらかに
400mのトラック。
さわやかなフォームを目の当たりにし、
つかれが一気に吹き飛びました。

 

・天來のいま山頂に春霰  野衾

 

澁澤さんの論語 3

 

子曰、其身正、不令而行、其身不正、雖令、不従、

子曰く、その身正しければ、令せずして行はれ、その身正しからざれば、令すと雖も從はず。

 

論語「子路第十三」の六にある言葉です。
令和の時代をまえに
新札の肖像として澁澤榮一さんのものがつかわれることになりましたが、
うえの言葉について澁澤さん、
こんなことを語っています。

 

人民は政に從はずして君に從ふ。
故に人を正しうする者は、宜しく先づ己を正しうせざるべからず。
正は中正、偏なく黨なきなり。
子曰く「その身を正しうせざれば、人を正すを奈何(いかん)せん」。
大學に曰く「その令する所、その好む所に反すれば、民從はざるなり。
民はその令する所に従はず、しかしてその行ふ所に従ふ。
故に牧民の道、身を以てこれに先んずるより善きはなし」と。
これを詳言すれば、
在上の君相、倫理を盡くし、言動を愼しみて、その身正しければ、
則ち教令して民を驅(か)らざるも、民自ら感化して善に趨く。
これと逆に、
君相自らその身の行ひを正しくせずして、徒らに言のみを以てすれば、
いかほど命令すと雖も、政令行はれずといふが、
これ孔子の政治の根本義なり。
政を言ふ諸章はみなこの根本義より出でざるはなし。
(澁澤榮一述『論語講義』二松學舍大學出版部、1975年、pp.667-668)

 

「令和」は万葉集からということですけれど、
俗に、命令に従って和する、と読めないこともありません。
それはただの邪推にすぎませんが、
令と民と政治について
新時代の新札に登場することになる澁澤さんの考えが目にとまり、
備忘録として
きょうの日記に引用しました。

 

・文庫本かわやの窓の蝶(はびら)かな  野衾

 

幸福な一冊

 

ジョージ・ギッシングの『ヘンリ・ライクロフトの私記』
を再読しようと思い、
たしかこの辺にあったはず、
と、
くまなく探した
はずなのになかなか見当たらず、
あきらめて古書を求めたところ、
本がとどく前の日に探していた本が見つかりました。
えてしてこんなものですね。
さてこの『ヘンリ・ライクロフトの私記』
これを好きだ
という人はけっこういるようで、
小説家の阿部昭さん(1934-1989年)もそのひとり。
朝日新聞学芸部編『読みなおす一冊』(朝日新聞社、1994年、pp.343-346)

その本にかんする阿部さんの文章が載っています。
末尾に
「私とほぼ同世代で相当な「本の虫」である女性、
英国で暮らした経験もありブロンテ姉妹の愛読者でもある女性にきくと、
彼女は高校三年の時以来、毎年元旦には原文でこれを読む、
正月でなくてもゆっくりした時にはついこの本に手がのびる、
そしていつも慰められる、
と答えた。
薄倖だったらしい著者の幸福な一冊である。」
とあります。
その『ヘンリ・ライクロフトの私記』
二冊持っていても宝の持ちぐされなので、
弊社のO編集長がもし持っていなければもらってもらおうかと思い
声をかけたところ、
二種類でている日本語訳を両方読んだのはもちろん、
大学院時代は上の女性のように
原文でも読んだとのこと。
その話をきいて、
わたしもうれしくなりました。

 

・はらを見せ煽らるるまま燕かな  野衾

 

ドリトル先生に会いたい

 

『ドリトル先生のサーカス』に
年老いた馬車引き馬のベッポーという馬がでてきます。
ベッポー、ベッポー、
はて、
どこかできいたことがあるような、
つらつら考えていましたら、
ミヒャエル・エンデの『モモ』に
道路掃除をなりわいとするベッポじいさんというひとがでてきた
ことを思い出しました。

 

いちどに道路ぜんぶのことを考えてはいかん、
わかるかな?
つぎの一歩のことだけ、
つぎのひと呼吸のことだけ、
つぎのひと掃きのことだけを考えるんだ。
いつもただつぎのことだけをな。
……………

 

ベッポじいさんがモモに語る言葉ですが、
これはまた三十五年も馬車をひき
いまやすっかり老衰した馬ベッポーの考えでもあるような気がしてきました。
エンデもドリトル先生を読んでいたかな?
そんなことを想像したり…
それはともかく。
ベッポーをはじめ、
にんげんのために働いて働いてきた馬たちのために、
ドリトル先生は有り金ぜんぶをはたき、
借金してまで牧場を買いいれ、
開放しました。
野山をのびのび走りまわる馬たちの姿が目に浮かぶようです。

 

・花ぐもり日のなごり浴び本をおく  野衾