ラブレーの中庸

 

カルヴァンの『キリスト教綱要』を読み、
その舌鋒の鋭さに舌を巻いた
ところまではよかったのですが、
読み進めていくにつれ、
だんだんそれがこちらの身におよび、
解放感よりもむしろ
苦痛のほうが増してくるようでありました。
なぜそんなふうになってしまったか
の分析はともかく、
これはまずいと思いつぎに手にしたのが、
マイケル・A・スクリーチの『ラブレー 笑いと叡智のルネサンス』(平野隆文訳)
でした。
すこしずつ
緊張したからだがほぐれていくように感じながら
読んでいましたら、
つぎのような文言にでくわし目をみはりました。
「ラブレーは、黄金の中庸という古代の理想と、謙虚というキリスト教の概念とを、
信仰という文脈内で並置する。強い信仰心を持って祈る場合には、
神はわれわれの祈りを聞き届けてくれるはずである。
しかも神は、
その要求が控え目なものならば、
つまり中庸mediocritasを旨としているならば、
それを叶えてくれるだろう。」(p.619)
この箇所を読み、
すぐに新井奥邃のことを思いました。
奥邃はどこかで、
いまのひとは新しい本は読むけれど、
身近に『大学』『中庸』などのいい本があるのに、
そちらはあまり読まないようです
と語っていたはず。
稀有なキリスト者であった奥邃は、
日々の生活の指針として儒学を重んじ、
それを生涯手放すことはありませんでした。
火刑と拷問が日常茶飯の時代にあって、
ラブレーのいのちがけの笑いの精神が、
奥邃の日用常行、謙虚とひびき合う気がしたからです。

 

・風を享(う)け甘露垂るるや枝垂れ梅  野衾