対談のご案内

 

きょうが二月最終日。
あしたからいよいよ三月です。
急に暖かくなったと思いきやまたグッと寒さがぶり返したりと、
このところ不安定な天候がつづいていましたが、
安定的に暖かくなることへの期待を込めて
「いよいよ」
さて、
三月末に予定している対談のお知らせです。
「学ぶ」について――昌益の学び、昌益に学ぶ
と題し、
安藤昌益の会事務局の石渡博明さんにお話を伺います。
石渡さんは、
野に在りライフワークとして安藤昌益を研究し、
『安藤昌益全集』の編集にも携わりました。
石渡さんの昌益研究から「学ぶ」ことの意味を探りたいと思います。
安藤昌益は江戸時代の医者で社会思想家。
万人の平等を唱え、万人が農耕に従事する「自然世」を理想とした。(広辞苑より)

日時:3月31日(日)17時~

場所:春風社

参加費は無料です。
対談終了後、軽食と飲み物を用意いたします。
ご興味のある方は春風社まで電話かメールでご連絡ください。

 

・冬の湯の肉(ししむら)垂るる滴(しずく)かな  野衾

 

治すのでなく治める

 

五木寛之さんの養生の考え方が好きで、
タイトルから判断し、
ときどき買っては読むようにしています。
書かれている内容は
かさなるところも多々ありますが、
情報を仕入れるためではなく、
このごろのじぶんの考え方のクセ、
ひょっとしたら
歪んでいるかもしれない方向を見直すために服用するクスリ
とでもいったところですから
楽に読むことができます。
『人生百年時代の「こころ」と「体」の整え方』(PHP)
もそのような一冊。
病気は治す(なおす)のではなく治める(おさめる)
というのは、
腰痛と偏頭痛に長年悩まされてきた五木さん
ならではの考え方だと思いますが、
ほんとうに、
若いときならいざ知らず、
としを重ねたにんげんが心身の衰えや故障を治そうと躍起になっても、
苦しいことのほうが多い気がします。
五木さんの本を読むとすこし気が楽になります。
五木さんには「気」に関する本もあり。
養生に必要な三つの「休め」

なるほどと合点がいきます。
「気休め」「骨休め」「箸休め」

 

・悶ゆれど背(そびら)は見えず寒灸(やいと)  野衾

 

子どものこころ

 

『長くつ下のピッピ』を読んでいたら、
ストーリーとは別に、
じぶんの子ども時代のことがいろいろ思い出されてきました。
翻訳を通してですが、
本のなかの子どものこころが
わたしのなかに眠っている
子どものこころとひびきあったのかもしれません。
うす暗い木の洞(うろ)に入り、
すき間から外を覗くシーンがでてきますが、
これなど、
国のちがいを超え、
子どもはみんな好きだろうなぁと想像されます。
おとなの知らない子どもだけの世界。
子どもはいつも隠れ家が大好き。
天才的な児童文学者は、
子どものこころを子どもの視点で描けるのでしょう。

 

・鈴鳴らし杣木(そまぎ)里まで馬橇かな  野衾

 

読書禁止デー

 

じぶんの本棚なのに、
なにがどこにあるのか確かめたくなって、
脚立にまたがり
時をすごすことがあります。
アストリッド・リンドグレーン作/大塚勇三訳『長くつ下のピッピ』
がふと目にとまりました。
岩波少年文庫の一冊。
つん読状態のまま、
まだ読んでいませんでした。
漢字のおおい本に少々疲れ気味ですので、
この機会にと思いゆっくり読みはじめました。
教師時代の教え子からは、
読書禁止デーをもうけたらと
うれしいメールをいただきそうしようかなと思っていた矢先、
漢字が少ないとはいいながら、
やはり文字を追ってしまいました。

 

・掌をかへし老いを養ふ火鉢かな  野衾

 

顔真卿

 

東京国立博物館に顔真卿の書を見に行った。
そこここで中国語が飛び交っており、
人気のほどを思い知らされた。
どこもかしこも観覧者がだんごのようになっており、
わたしは撫でるようにしか見なかったけれど、
そのためもあってか、
書の文字が、
風に象徴される万物の移ろいを
なんとか形にして表現したいという
やむにやまれぬ欲望の表れ
と感じられた。
杜甫とほぼ同時代の人物。
仏教・道教の影響もあったというから、
わたしの感覚は、
当たらずとも遠からずだったかもしれない。

 

・降る雪や汽車を待つ間の古馴染み  野衾

 

少女になる母

 

正月帰省した折、
ふと見ると、
居間の隅に置いてある小さなテーブルに若いころの
母の写真が置いてありました。
写真館で撮った写真とすぐに分かります。
三枚あったので
母に断り一枚もらってきました。
結婚する前に見合い写真として撮ったものではないかと思われます。
二十代の母。
かあさんになる前の母は、
若いころのぼくに似ている気がします。
秋田に電話すると、
父がでることが多いのですが、
たまに母がでると、
もらった写真の印象がつよいせいか、
声の主がだんだんと
少女にかえっていくような不思議な感覚にとらえられます。

 

・ぬばたまの眼に映ゆ冬の炎かな  野衾

 

浩蕩

 

杜甫にかんする吉川幸次郎の本を読んでいて知ったことばに
浩蕩(こうとう)
があります。
たとえば広辞苑をひくと、
「広大なこと。転じて、志の奔放なさまにいう。」
とあります。
吉川の説明は、
もうすこしふくらみがあるというのか、
語のベクトルがちがうとでもいったらいいのか。
いわく、
「浩蕩」とは、
あてどもなく空漠に無目的にひろがる空間、
それにむかいあった際の心理を表現する語。
この「浩蕩」が杜甫の詩には幾度かでてくるそうです。
外の景をいうだけでなく、
こちらの心理をいう、
むしろそこにウエイトがかかっている。
このことばの意味を知ったとき、
すぐに思い浮かんだのは映画『海の上のピアニスト』
でした。
豪華客船のなかで産まれ育った主人公が、
船がニューヨークに着いて下りようとしたとき、
タラップの途中で
ニューヨークの街をはるかに見遣り、
くるりと踵を返し船に戻る。
印象的な好きなシーンですが、
「浩蕩」という語がぴったりする気がします。

 

・雪ふかき浩蕩に入る野老かな  野衾

 

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