一月尽は?

 

尽という字は「つきる」と読みますから、
最終という意味で尽をつけ、
月の晦日のことを「〇月尽」とし
季語として使っている俳句を目にします。
が、
一月から十二月まで
どの月でもいいかといえば、
然に非ず。
わたしが使っている角川の『合本俳句歳時記 第三版』によれば、
「古くから三月尽と九月尽とが並べて用いられてきたのは、
春と秋にはいろいろ心に沁む景物が多く、
それらを惜しむ気持ちの現れであろう。
ただ漠然とどの月にも何月尽と用いることはおかしい。」
とのこと。
納得。勉強になりました。
さて、なにはともあれ、きょうが一月最終日。
はやいなぁ。

 

・くさきもの臭ひ消さるる寒さかな  野衾

 

バルトとモーツァルト

 

宮田光雄先生(電話でですが、昨年、何十年ぶりかでお声を拝聴)

『カール・バルト――神の愉快なパルチザン』(岩波現代全書)
をおもしろく読みましたので、
勢いづいて、
つんどく状態だったバルトの
『ローマ書講解』を手に取りました。
と、
こちらは、むずかしいけどおもしろい
というのも憚られるぐらいの
書物でして、
バルトはしばらくいいかと思いました。
が、
バルトの本に
『モーツァルト』(小塩節訳、新教出版社)があることを知り、
さっそく読んだところ、
これはまた
ラジオでのインタビューがもとになっている
せいもあってかすらすらと。
バルトさんモーツァルトのことがよほど好きらしく、
あの世へ行ったらパウロをはじめ
会いたい人が何人かいるけれど、
なんといっても
一番に会いたいのはモーツァルトだと。
ということで、
このごろは
バレンボイムの『ピアノ協奏曲全集』
に聴き惚れています。

 

・鷹の眼の千古のひかり伊良湖崎  野衾

 

天の気と人の気

 

アイドルの人気のようにつかわれる「人気」ですが、
「にんき」でなく「じんき」
と読んで、
いまとちがうとらえ方があったようです。
天に気があるように人にも気があり、
それがべつべつ独立したものでなくお互いに密接に関係しており、
相互に作用しあっている
というもの。
インフルエンザが大流行していますが、
インフルにかぎらず、
わたしもふくめ
なんとなく体調がすぐれないひとが
周りに少なくありません。
天の気と人の気、
さらに、
政道がみだれるとそれが天の気を乱し
天変地異が起こるという見方があったようです。
宝島社の新年の企業広告、
「敵は、嘘。」「嘘つきは、戦争の始まり。」

ご政道の乱れを突くことばかと思われます。

 

・たづね来て千古の鷹や伊良湖崎  野衾

 

昌益の読んだ本

 

安藤昌益は、現在の秋田県大館市に生まれた
ことは分かっていても、
伝記的部分のよくわからないひとで、
それもあってか
昌益のものを読む研究者は、
自身の考えを昌益に仮託して語る
ということがこれまで少なくなかったようだ。
いかにユニークな考えを持つ思想家でも
はじめからユニーク
ということはまず考えられない。
時代や地域の一般的常識的な思想を身につけ、
それをスプリングボードに、
そのうえで
なにかを契機にして
ユニークで新たな思想の領野に踏み込んでいくのだろう。
そのことに気づかせてくれたのが、
若尾政希著『安藤昌益からみえる日本近世』(東京大学出版会)
である。
若尾さんは、
一次資料にあたりながら字句の比較を通して、
昌益がなにを読んだのかを
丹念に調べ上げている。
分からないことや分からないひとを
色づけするのではなくて、
地味ながら必要なことを時間をかけて行う。
読んでいて実に気持ちのいい本。
また、
思想形成にとって
書物のもつ力
ということをあらためて感じ考えさせられた。

 

・富士見ての底冷えのするホームかな  野衾

 

詩の一行

 

ウォルト・ホイットマンの『草の葉』(酒本雅之訳、岩波文庫)
を読んでいたら、
トンブクツーが出てきた。
「ぼくには見えるアルジェ、トリポリ、デルナ、モガドル、トンブクツー、モンロビアが、」
の一行。
忘れもしない、わたしのすきな詩「世界は一冊の本」のなかの一行、
「ウルムチ、メッシナ、トンブクトゥ、」
トンブクツー、トンブクトゥとは?
サハラ砂漠南縁にあるマリ共和国の都市で、
1988年、世界文化遺産に登録された。
この詩の作者である長田弘さんと対談した折、
長田さんにお願いし
この詩をご本人に読んでいただいた。
そのときのとつとつと発音された「トンブクトゥ」の声が音が
いまもわたしの耳にのこっている。
もう長田さんに尋ねるわけにはいかないけれど、
「世界は一冊の本」の詩をつくるとき、
どこかで
ホイットマンの『草の葉』にある「Tombouctou」が
聴こえてはいなかったか、
響いてはいなかったか。
よきアメリカを愛した長田さんは、
きっとホイットマンの詩も好きだったのではないかと思う。
なにかのエッセイで書いてあったかもしれない。
わたしが忘れているだけかもしれない。

 

・羽ばたかず地を這ふ冬のかはびらこ  野衾

 

昌益の心意気

 

三月に予定している対談の予習にと、
『稿本 自然真営道』(平凡社)『統道真伝』(上・下 岩波文庫)
を読むにつけ、
狩野亨吉が昌益の原稿を発見した際、
この人は狂人ではないかと怪しんだというエピソードを思い出した。
儒教であれ道教であれ仏教であれ、
耕さざる者食うべからず
織らざる者食うべからずの精神で、
あらゆる学問をバッサバッサとなぎ倒す。
孔子であれ釈迦であれ、
昌益の刃にあてられてこなごなに飛び散る。
それが徹底している。
読みはじめて間もなくの頃は
小気味いいぐらいに感じたものの、
読み進むうちに、
このひと本当に頭がどうかしているんじゃないか
と思いたくもなってくる。
昌益の主著を読み終えたので、
若尾政希著『安藤昌益からみえる日本近世』(東京大学出版会)
をひらいてみた。
まだ半分ほどだが、
昌益が生まれ育った時代の秋田の政治状況、
農村の疲弊した姿が浮かび上がってきた。
徳川吉宗の時代、
享保の改革が深くかかわっていることも教えられた。
昌益は現在の秋田県大館市の生まれ。
昌益にかぎらず、
ユニークな思想家の思想というのは、
それだけ見ていたのでは分からないものかもしれない。
後世のひとから見ればユニークと思えても、
なぜそういうユニークな考えを持たざるを得なかったか
の視点が欠かせないようだ。

 

・大寒の烏の影の蔽ひけり  野衾

 

なんとなく

 

ノドが痛いわけでなく、
熱があるわけでなく、
とくに頭痛があるわけでもなく。
ただ、
なんとなくおなかがむかむかし
気持ちの悪い日がつづいていましたが、
これひょっとして風邪か?
と考え、
葛根湯を服み
人生舐めずに、
声楽科をでているKさんがくれたプロポリスの飴を舐めたせいか、
けさはなんとなく
体が軽い気がします。
やはり風邪だったかもしれません。
社内でもマスクを着けているひとがちらほら。

 

・短日や倉庫の屋根の猫の影  野衾

 

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