不和の因

 

ある病院の廊下に置かれたベンチでのこと。
午後のこととて
人はまばら。
わたしのとなりのベンチに、
八十歳がらみの夫婦らしき男女が腰かけていました。
男性が手にした冊子を熱心に見ながら、
「ペン持ってない?」
と早口で女性に訊いています。
早口なので、
「ペン持ってない?」の撥音が
ほとんど消えてしまい、
「ペもてない」みたいにしか聴こえません。
「ペもてない」ではなんのことやらちんぷんかんぷん。
案の定「はい?」と女性が訊き返しました。
「ペン持ってないか?」
と男性。
さっきよりすこし声が大きくなりました。
早口は変わりません。
したがって
相変わらず「ペもてない」
としか聴こえない。
「え? なに? なんですって?」
と女性はやおら男性のほうへ身を近づかせます。
「ペン持ってないのかよ? もういいよっ」
男性は話しかけるのをやめ、
目の前の冊子に目を落としています。
「なによもうっ。すぐそうやって怒るんだから。
ペン、持って、ないか? って、
最初からゆっくり大きな声で言ってくれれば分かるのよ…」
と女性が抗弁するも、
男性は下を向いたまま身じろぎしません。
我が身を振り返り、
ひとにものを言うときは、
ゆっくり大きな声で言おうと思った次第です。
ではありますが、
ぼくは半分男性に同感です。

 

・旧街道つぎの宿まで走り梅雨  野衾