冷暖自知

 

中村元の『広説佛教語大辞典』によれば、
冷暖自知の説明として、
「水の冷たさやあたたかさは、
飲む者が自分で経験する以外に知る方法がないように、
さとりも自分で実践体得する以外に知る方法がないということ。
他人には教えてもらえないこと」とある。
『無門関』『正法眼蔵』にでてくる。
本を読むということも
だれかに代わってもらうことはできなくて、
自分で読みながら
感じ味わい
考えるしかない。
極端なことを言えば、
情報を得るだけなら、
めんどうで時間のかかる読書は要らないかもしれない。
しかし、
正しさもたのしさも、
また
おもしろさをみずから知るには、
めんどうな読書を
自分に課すしかありません。
アウグスティヌスの『神の国』に、
人間に罪が入る前には
男は性器を自分の意思で動かすことができた
なんてことが書かれてあり、
電車のなかで読みながら吹き出しそうになった。
冗談でなく、
クソが着くほど真面目に弁証しているからくその
もとい、
弁証しているからこその可笑しみ。
解説書などで済ませてしまう
にはもったいない
のが古典だ。
アウグスティヌスがいきなり
となりに来た。

 

・梅雨入より指折り数ふ烏啼く  野衾

 

無意識の発見

 

そういう書名の本がありますが、
本のはなしでなく。
夜中、
はっきりとした言葉で
「ちょっと分からないなぁ、こりゃ」
ん!?
なんだ?
なにが分からない?
俺に話してる?
ほどなく、
なんのことはない家人の寝言であることが判明。
ムニャムニャと不分明
であれば
すぐに寝言と判断できますが、
滑舌よくハッキリ言うから、
そばにいる人間は戸惑ってしまいます。
朝になり
そのことを指摘すると、
なぜそんなことを口走ったのか、
本人まったく憶えておらず、
夢の中身は
永遠に
ふかい闇に紛れることに。
古代遺跡がながいときを経て見つかるように、
夢の中身が発見されることは
あるか、
ないか。

 

・意味避けてそよぐ風あり奥邃忌  野衾

 

祥月命日

 

先週土曜日、
新井奥邃先生記念会があり、
世田谷区代沢にある森巌寺に墓参に行ってきました。
奥邃が亡くなったのは
1922年(大正11年)6月16日。
今年の参加者は十四名。
世田谷美術館の方、
東京新教会の牧師先生は初めての参加。
梅雨の時期ですが、
さいわい雨に降られることなく、
墓参後、
世田谷区太子堂まちづくりセンター2F小会議室に移動し、
ミーティング。
おととしから始めた
「新井奥邃のことばをよむ」
は今年で三回目。
今回は、
学について
奥邃がいかに考えていたのか
そのことに触れられる箇所をえらび、
しばしの時間
ともに学びました。
さて
日付変わってきのうは父の日、
保土ヶ谷駅の掲示板にこんなのが貼ってありました。

 

・静黙を深く刻めよ奥邃忌  野衾

 

本のリレー

 

インターネットを通じ欲しい古書を求めたところ、
見返しの紙に
著者直筆のサインが認められてありました。
本を贈られた方の名を
どこかで見た記憶があり、
さっそく調べてみたら
著名な神学者で、
昨年四月、
97歳で亡くなっておられました。
想像するに
ご遺族か生前親しくしておられた方が
本の整理をされ、
古書店に引き取ってもらい、
それがわたしのところに届いた
のではないかと思われます。
著者の
おそらく万年筆でしょうか、
静かな小さな字に
しみじみとした気配がただよっているようです。

 

・荒梅雨や無聊を照らすモーツァルト  野衾

 

立小便は負け!?

 

このごろ立小便をする人を
とんと見かけなくなりました。
むかしはごくあたりまえ、
わたしも子供のころはよくしておりました。
また、
酔っぱらいのオジサンがしていると、
ちかくまで見に行って観察し、
小便が二手に分かれ
チョロチョロ流れ地面を濡らすのを不思議に思ったものでした。
あれから半世紀。
世の中は変わりました。
それでもたまに、
ここ横浜でも
薄暗くなった夕刻、
坂の途中の電柱に隠れるようにして
用を足しているオジサンを見かけることがあります。
さて、
会社の若手社員に教えられた『VOW』
という本がありまして、
これは、
雑誌『宝島』に投稿された笑いのネタを編集し
まとめたもの。
内容は、
読者が街で見つけたヘンな看板、誤植、チラシ広告、新聞記事等々。
すでに何冊かでていますが、
その一冊
『ベストオブVOW』に、
「こゝで立小便する人は負ける」
(しかも「負ける」の文字だけ赤)
という
看板の写真が収録されており、
それが本の帯にもつかわれています。
傑作と思いましたネ。
少し理屈を言わせてもらえば、
世の中は変わっても、
いまもって日本は圧倒的に男社会、
そのことは
だれもが知っているはずで、
競争社会でしのぎを削る働き盛りの男であればなおさら、
競争を意識せぬ男はいないでしょう。
競争は、
勝つことに意義がありますから、
最初から負けと分かる競争などしたくない…。
そういう社会的状況と
心理的ストレスを
踏まえ、
「こゝで立小便する人は負ける」
これがわが家の近くの坂道にあったら、
まず
立小便をする人はいないだろうと思われます。
だって、
「こゝで立小便する人は負ける」

 

・明月院海に焦がるる四葩かな  野衾

 

朝ごとに新し

 

きょうにつながったきのうがたしかにあり、
うたがいなく
明日につながるきょう
のはずなのに、
悲しみや苦しみの果て、
世も自分もぐらつきはじめ、
そのことに確信が持てなくなる日があります。
カール・バルトの『福音主義神学入門』(加藤常昭 訳)の第10章
「孤独」
にある言葉が
目に留まりました。
自分の信仰の孤独を持ちこたえ、
耐え忍ぶことの重要性。
「信仰へと解放された人間たちだからと言っても、
もしそこで信仰ノ知解が問われる場合には、
そこでただひとつの可能な方法を自分のものにするために、多くの人が用意あり、
その能力があるというようなことがどうしてありうるであろうか――
唯一の方法とは、
それに必要な一八〇度の転回を
(一度だけでなしに朝ごとに新しく)
敢行するということであり、
したがって人間の側からでなく、
人間に語られた神の言葉の側から問い、答えるということ」
一度だけでなしに
朝ごとに新しく。
バルトのいわば日用常行。
中公新書のベストセラー、ロングセラー『世界の名著』
には、
思想家・宗教家・社会運動家45人の45冊
が取り上げられ、
解説が加えられていますが、
そのなかの一冊が
カール・バルト『福音主義神学入門』
解説は滝沢克己。

 

・午後三時黒き弾丸燕かな  野衾

 

ビリー・ジョエル

 

桑田佳祐が作詞・作曲した「私はピアノ」
のなかに、
「辛いけど涙見せない 雨の降る夜にはビリー・ジョエル」
という歌詞がでてきます。
ビリー・ジョエル。
名前を唇に上らせるだけで、
なつかしい!!
なんともアメリカやなぁと。
理屈抜きにアメリカを感じさせてくれるミュージシャンがいますが、
ビリー・ジョエルなどはその筆頭
かもしれません。
「ピアノ・マン」
「ニューヨークの想い」
「ストレンジャー」
「素顔のままで」
「マイ・ライフ」
「オネスティ」
「ニューヨーク52番街」
思いつくまま彼のヒット曲を並べるだけで、
涙ちょちょ切れ(古!
若いひとは知らないだろうけど、
むかしそういう言い方があったのよ)
仲良しのりなちゃんが
このごろビリー・ジョエルに
嵌っていて
先日遊びに来てくれたとき、
コーヒーを飲みながら
ビリー・ジョエルの歌声に耳を傾けたのでした。
……
二十数年前、
前の会社にいたころ、
社長とふたりで
アメリカを訪れたことがありますが、
ニューヨークにも立ち寄り
数日宿泊、
摩天楼というのはこういうビル群を指すのだなぁ
と、
すっかりお上りさんぶりを発揮。
その社長、
すでにこの世にいません。
「ストレンジャー」の口笛が思い出され、
ニューヨークが後を引きます。

 

・染め色の青に小暗き梅雨晴れ間  野衾

 

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