掃き清め

 

・魔のごとく体育館の上の月

秋田の母親を見ていて思うのは、
癖が似ているということ。
下に落ちているモノを拾わずにいられないのもその一つ。
悪い癖ではないと思いますが、
それをいま拾わなくたって、
と思うことも間々。
でも、
拾わずにいられない…。
どうも自分の居るところの横でなく
上でなく、
下が気になります。
その感覚は、
本を読んでいるときにもあり、
からだというか
こころというか、
底を掃いているような気がするときがあります。
本を読んでいて、
あああ、
と思うと、
自分は
なにものでもなく、
いろいろ持っていても、
死ねばあちらに持っていけないし、
だから結局
なにも持っていないと同じで、
と、
つらつらつら。
さささっと、
掃かれている気がしてきます。
場は自分であります。

・ころころり終りなきよな虫の声  野衾

「弟」という字

 

・雲祓い青き明るき良夜かな

大崎章監督の映画『お盆の弟』について、
きのう書きましたが、
映画とはまったく関係ありませんが、
きょうは
「弟」という字のことです。
これは象形文字で、
なめし皮の紐でモノを束ねた形なんだそうで、
モノを結び合わせる意であり、
のちに
兄弟の意に用いるようになった

白川さんの『字通』にあります。
が、
この字をジッと、
ジーッと、
ジーーーーーッと
見ておりますと、
二本の長い触角様のアンテナ
をつけたヒトが、
右足を斜めにひょいと出し立っている
姿が髣髴としてきます。
『お盆の弟』のポスターでは、
二人がまっすぐこちらを見ていますが、
弟役の渋川清彦が
右足を少し斜めに出していたら、
立ち姿がすでに弟を表現していて
笑えたろうに、
なんて。

・江ノ島や顔拭く先に秋の風  野衾

お盆の弟

 

・日暮らして疲れを忘る土瓶蒸し

大崎章監督の『お盆の弟』を観に
黄金町にあるシネマ・ジャック&ベティへ。
大腸がんを患い手術した独身の兄の面倒を見に帰った弟は、
『キャッチボール屋』をつくって以来、
しばらく新作を発表していない。
そんなところから話は始まります。
『キャッチボール屋』は、
二〇〇六年に発表された大崎監督の実際の映画。
そうです。
この映画は、
大崎監督の自伝的要素が少なくありません。
ていうか、
かなり多そう。
JR保土ヶ谷駅から徒歩一分、
国道一号線沿いにある
ビストロ・グランブルーで
監督とたまに会い、
あいさつを交わし話したこともあります。
何度目かのロケを終った日に監督が店に現れ、
嬉しそうにしていたことも思い出します。
どんな映画かと
興味津々で黄金町まで歩きましたが、
コミカルなタッチながら、
考えさせられたり、
ほろりとさせられたり、
今の時代の空気をうまく切り取っていて、
じつにおもしろい映画でした。
エンドロールに、
ロケを行った土地の方々の名前が出ていましたが、
それが映画のタッチによくマッチし、
おかげさまでこうして映画ができましたと、
うれしい気持ちが表れているようで、
観ているこちらまでうれしくなりました。
どこにでもありそうな
現代の風俗を切り取りながら、
人情の通い合う、
またその限界を描き
普遍に向かおうとする志向において、
全編モノクロであることが
功を奏しているとも感じました。
シネマ・ジャック&ベティで十月九日(金)までやっています。

・エビぎんなん三つ葉マツタケ土瓶蒸し  野衾

稲作崩壊

 

・稲の香を嗅ぎて百姓寿命延ぶ

小学生の頃、
日本の農業の現状は三ちゃん農業であると習いました。
三ちゃん農業の三ちゃんとはだれのことか答えよ、
なんて問題が社会科のテストにでてたっけ。
ところが平成二十七年の日本では、
世の変動すさまじく、
すでに三ちゃん農業すら維持できず、
二十年先、十年先どころか、
五年後の展望さえ持てない農家が多くなっています。
米で食べていけないとなれば、
若い者はどうしたって
外へでて働かなければなりません。
ところが、
高齢の者だけでは稲作は無理。
必然、
業者にたのむことになります。
今はそういう業者が
ないわけではないけれど、
収穫後、
田んぼを所有している農家への払いが
一反歩たったの一万円であると聞いて驚きました。
だからといって、
業者がぼったくっている
わけでもなさそうなのです。
稲作は一年365日、
手間がかかります。
農繁期、農閑期という言葉がありますが、
まじめな農家ほど農閑期が少ない。
それを業者が引き受けてやるというのは、
資本主義経済の成り立ちから考えると、
いかにも実入りの少ない
あまりパッとしない商売でしょう。
アメリカ型の大規模農業は、
そもそも日本の棚田にはそぐわないのです。
それでも、
一反歩たったの一万円でも、
休耕田にするよりはまだマシ
ということで
業者にたのんでいるところもあるようです。
今回秋田に帰ってみて、
新幹線の車窓から
刈り入れを待つ稲田の光景に目をやりつつ、
複雑な気持ちに襲われました。
日本は古来
瑞穂の国と讃えられてきたとおり、
時代は大きく変化しても、
稲作をやめて日本が立ち行くとは思えないからです。
かといって
業者に任せっきりでは
農家は食べてゆくこともできません。
もはや、
農協を拠り所とする体制は、
稲作に関する限り崩壊しているのではないでしょうか。
出版業界の変化と似ている気もします。
唐突ですが、
農家、行政、企業が一体となって事にあたる、
イギリス発祥の
グラウンドワークの方式しかないのでは。
グラウンドワークは、
小さい政府を目論むサッチャー政権の下で生まれた考え方ですが、
今の安倍政権では
とうてい無理。
あの人が、
こちらを向くとはどうしても思えない。
祖父の恩愛と感じる甘さに浸かって
汲々としているだけでしょうから。
いまの法律の体系内で
グラウンドワーク方式を採用することが可能か否か。
昨夜、
八十四歳になった父から電話がありました。
今年の収穫は終ったと。

・稲の穂の稔り波打つ黄金かな  野衾

石巻再訪

 

・石巻烏連れ行く月夜かな

18日、19日と石巻泊。
18日は写真集『石巻 2011.3.27~2014.5.29』の印税分からの寄付と
写真集を届けに橋本照嵩さんと北上小学校へ。
北上小学校は、
東日本大震災後の2013年、
それまでの相川小学校、橋浦小学校、吉浜小学校が統合し、
新たに開校した学校です。
震災後、
三校の生徒と先生は、
建物が残った吉浜小学校に集まり、
それぞれの教育を
ひとつところで行っていたそうですが、
二年後に統合され、
いまは、
北上小学校の生徒としてのまとまりがでてきたと、
新妻憲男校長は笑顔を見せていました。
チリで起きた地震の影響で津波が押し寄せることを警戒し、
学校は休みでしたが、
新妻校長と河田裕教頭が待っていてくれました。
19日は、
「ちあきなおみ」と新版「北上川」サラ地写真展へ。
橋本さんが1971年に撮影した「ちあきなおみ」
の写真(タテ2m×ヨコ3m)2点と
「北上川」に収録した写真をずらり
一枚に並べたもの(タテ2m×ヨコ3m)が展示されてありました。
見た瞬間、
笑いがこみ上げ、
なんとも愉快な気分になりました。
写真を建物の中にだけ展示するのはもったいない。
こういう見せ方もあるのかと感動!
道行くひとが立ち止まり
写真を指差して見入っている姿に、
石巻の計り知れない底力を感じもしました。
午後からは、
池森暢昌さん、愛称ノブさんの
ライブペインティングパフォーマンス。
東北復興への思いと生命のエネルギーを
戦後70年を期し
墨とダンスで表現するというもの。
ノブさんは広島出身の方です。
いちばん前で観ていたのですが、
これまたなんとも愉快絶頂、
笑ったり目頭を熱くしながらの観戦、いや観劇。
ダンスが終ってノブさんが両手を挙げたとき、
背後の北上川の上空に、
ダブルレインボーがくっきりと現れたのには
誰からともなく、
おおおおおっ!!の声。
偶然というには
もったいなくも有難い瞬間でした。

・石巻熱気の後の爽気かな  野衾

からだの不思議

 

・ラジオよりセプテンバーの曲流る

今更ながらのことではありますが、
真っ黒なコーヒーを飲んだのに、
からだを通過して
でてくるときは透明です。
真っ白なソフトクリームを食べたのに、
からだを通過して
でてくるときは茶色です。
(初めてバリュームを飲んだときは驚いた!)
まいにち立ち会う現象ながら、
なんとも不思議。
からだはうまく出来ています。
学校で理屈をならっているうちに、
また
毎日のことでもありますから、
さほど驚かなくなったものの、
からだや健康のことが気になり始め、
ひとつひとつの食べ物が
さらに美味しく感じられるようになってくると、
あらためて
からだの不思議に気づかされ、
どうもどうもであります。
今日は、
いつものようにコーヒーを淹れて飲み、
それから宮城県塩釜に向かいます。
連休は、
たいしたことはできないけれど、
秋田で稲刈りの手伝いです。

橋本照嵩『石巻かほく』紙上写真展
の三十回目が掲載されました。
コチラです。

・小便も雨も水なり九月かな  野衾

絶対無をやる

 

・秋の雨階段の苔すべるらし

小野寺先生来社。
近著『随想 西田哲学から聖霊神学へ』の刊行にあわせ、
神奈川新聞の記者が取材してくださいました。
小野寺先生は、
小・中・高をはじめ、
大学、大学院の学生まで教えた経歴を
お持ちの先生ですが、
小学校時代の教え子たちが集まったとき、
小野寺先生のことが
話題に上ったそうです。
「小野寺先生、いまはなにをしておられるのかな?」
「相当むずかしいことをやってるらしいよ」
「むずかしいことって?」
「なんか絶対無とか…」
「なにそれ?」
「まあ、絶対的な無ってことでしょう」
「あ、そう…」
「難しくってよく分からない」
「先生に一度来てもらって話してもらおうか?」
「それがいいそれがいい!」
てなことになり、
教え子たちに呼ばれ、
絶対無について講演をなさったそうです。
取材の途中だったのですが、
絶対無をやっている
という言い方が
笑いのツボに嵌り、
腹を抱えてしまいました。
そうか。
絶対無って、
やるものだったのか。
転瞬、
変な方向に頭が飛躍。
子どもの頃、
切った丸太の面を台にし
パッチ(メンコ)をやったものでしたが、
自分の持っているものの中で
いちばん強いパッチが友だちのパッチに負かされ、
丸太の台から吹き飛ばされたとき、
台をにらむ目がみるみる霞んでいった。
あの台の面こそまさに絶対無で。
悲しくて悲しくて、
女々しくて女々しくて
ぼくも絶対無をやりました。

・秋霖や東海道は斜めなり  野衾

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