石巻日日こども新聞

 

・降り立ちておぼろ金沢文庫駅

「石巻日日こども新聞」は、
石巻の子どもたちが記者となり
被災地を取材することがコンセプトの新聞です。
東日本大震災から一年後の
二〇一二年三月一一日に創刊されましたが、
その十三号が昨日弊社に届きました。
『突撃! よこはま村の100人―自転車記者が行く』
の印税と春風社としての義捐金とを合わせ届けに、
『突撃!~』の著者で
神奈川新聞記者の佐藤将人さんと
「石巻日日こども新聞」を訪ねて以来、
毎号送っていただいています。
今号には、
難病を抱えながら取材にあたっていた
小学六年生女子の記者が書いた記事も掲載されていますが、
自身の文章が載った新聞を目にすることなく、
今年二月に命を落とされたそうです。
佐藤さんとわたしが訪ねた後で、
記者になったといいますから、
面識はありませんが、
どんな気持ちで日々を送り、
取材し、
記事を書いていたかと想像されます。
子どもたちの眼と心が働いている新聞です。

・文庫より麗日バスは山に入る  野衾

読むこと

 

・花粉症我のタンクは未だ充たず

読むといえば、
「読書」というぐらいですから、
本を読むことになりますが、
あたりまえながら、
この場合、
まず字が書いてある本でしょう。
しかし、
字が書いてなくても、
読むという行為はありえるし
楽しいし、
また考えるよすがになると、
このごろとみに感じます。
古語の「よむ」は「よぶ」と同系統の語であるらしい。
これは二つとも声に関係しているからで、
文章、詩歌、経文などを
声を上げて唱えることがかつては
「読む」だった。
さらに、
「よむ」が「よぶ」と同根だとすれば、
呼び招く、差し招く、招待するの意もそう遠くない。
恋する人を呼び招き
差し招くように、
対象の肩に触れ、
腹に触り
息を合わせ、
距離をなくすることが
「よぶ」=「よむ」なのだ。

・疲れきて音無き雨の懐に  野衾

道具考 2

 

・春の風アウトレットの内外かな

前回鉛筆でしたので、
今回は、シャープペンシル。
これの画期的なところは、芯が太らないこと。
書きやすさでいったら、
鉛筆にまさるものはないと思いますが、
鉛筆の最大の弱点は芯が太ること。
あたりまえのことながら、
これがひじょうに困ります。
書くことが思い浮かび、
ゆるゆると書き始め、
次第に興が乗り、
最高スピードに達するかと思いきや、
芯がぶっとくなって書きづらく、
鉛筆削りで芯を細くしなければなりません。
まさに寸止め。
ガリガリと芯を細くしているうちに、
イメージもアイディアも雲散霧消なんてことになりかねない。
それを解消したのがシャープペンシル。
だってカチカチさせるだけで、
文字通り、
芯がずっとシャープなんだもの!
芯の取替え時期ということがあり、
そのときたまたま、
素晴らしいアイディアが滾々と湧きでていたのに、
なんてことも
ないわけではないけれど、
そんなにはない。
というか、まあ、ない。
自分にフィットするシャープペンシルほど、
ふだんあまり意識しませんから、
よけいありがたく思います。
なんでもそうでしょうけれど、
すぐれた道具というのは、
それを使っていることを
使い手に意識させず、
使い手を当の目的に直に向かわせます。
道具が道具としての存在を主張しすぎることは、
けして好ましくなく、
どっちが主人か分からなくなって、
やがて道具に使われる、
ということにもなりかねません。
前置きが長くなりました。
わたしが気に入ってずっと使っているシャープペンシルは、
PILOT Dr. GRIP・0.5
ボディーの重量、持ったときの感触、グリップの具合、
長く使っていても、
芯がでてくるところの遊びが大きくならず、
この道具をいま使っている
ということをほとんど意識せずに、
書くことに集中できます。
わずか数百円のものですが、
わたしには今のところこれが一番です。

・雲切れて三月の空色づけり  野衾

道具考 1

 

・オーディオを消し春音を聴いてをり

道具について考えてみたいと思います。
こういう仕事をしていますので、
文房具から。
文房具といえばまず鉛筆ですが、
ここしばらく、
最後に使ったのがいつか分からないぐらいしばらく、
使っていませんが、
三菱のハイユニを超える鉛筆はないのではと。
ハイユニのHBで書いた日にゃ、
ぼんくら頭ガスアダマの滑りが数ミリ
増したようにさえ思えたものです。
1ダースを、
プラスチックケース入りで買ったときの気分といったら、
まさに最高! 絶頂感でありました。
書くこと自体が楽しくなった、
そんな思い出がございます。
なのに、
それほど気に入っていたのに、
いつの間にか
使わなくなりました。
それはいったいなぜなのか。
このごろわたし講談調。
シャープペンシルという
画期的な道具に目移りしたということもありましょうが、
三菱鉛筆ハイユニは、
見ているだけで
惚れ惚れ、
ただ線を引くだけで
気持ちよく、
また芯の減り具合がハンパじゃなく、
勉強には、
もう少し地味な鉛筆のほうがいいのではと、
少年のわたしは考えた、
そうだったような、
そうでもなかったような、
ずいぶん昔のことで、
すっかり忘れてしまいました。

・御殿山そんなに誘うな朧月  野衾

失くす夢

 

・春を知り向こうお山も眠たそう

うつつにも物を失くしますが、
夢でも物をよく失くします。
おカネ、切符、大事な書類、買ったばかりの本などなど。
現実に起きた場合は、
自分の粗忽を
憤り、
呆れ、
仕舞いに笑うしかありませんが、
夢の中だと傾向がちがい、
悲しみの色が濃くあらわれ、
それを転機とし、
たとえば怖いもの
恐ろしいものに追いかけられる方向へ向かうことが多い。
ところで、
サッカーのマラドーナ氏が整形したそうで、
それを伝える写真が
仏メディア『パリ・マッチ』に掲載された
とのことですが、
その写真がほとけ様みたいで、
笑ってしまいます。
仏メディアの「仏」は、
ほとけとも読めるから、まあいいかと。
夢でもほとけになることは
なかなか叶わないわけですから、
どうせ整形するなら
いっそのことほとけになろうと
マラドーナ思ったか?

さて、『石巻かほく』に
写真集『石巻』紙上展の四回目が掲載されました。
コチラです。

・恋猫の恋する声をまだ聴かず  野衾

猫会議

 

・この人も祝われ成った雛祭

わたしの住む御殿山には猫がたくさんおりまして、
朝の出がけに見送ってくれたり、
帰宅時に家人より先に迎えてくれたり。
茶猫黒猫虎猫いろいろいます。
以前は近づくと
プイッ、
ススッ、
と離れていったものでしたが、
このごろは慣れてきたのか、
近づいて話しかけてもその場を離れません。
人の話を聞いているのかいないのか。
まあ、
聞いてくれなくてもいいですが。
相手は猫ですから。
猫たち、
集まっては
何やら話し合っているようなときがあるかと思えば、
写真のように、
会話が途切れ思案している風情のときも。
日向ぼっこに交ぜてぐれ!

・ひなまつりあられたべたべくしゃんかな  野衾

苦吟の効用

 

・初句会恥ずかし楽し春の中

この日記の前と後ろに俳句を二句載せていますが、
季節を感じてスッとでることもありますが、
どうあがいてもなんもでん
ときもありまして、
そういうときに参考にしているのが、
村上護『今朝の一句 366日の俳句ごよみ』(講談社)
石寒太『俳句日暦 一人一句366』(PHP文庫)
二冊とも365日でなく
366日であるのは、
うるう年を念頭に置いているからなのでしょう。
この二冊の「きょうの日」
を眺めても浮かばないときは、
白石明大『日本の七十二候を楽しむ 旧暦のある暮らし』(東邦出版)
をパラパラめくります。
それでも駄目なとき、
角川書店編『合本俳句歳時記』第三版
に縋るしかありません。
こんなふうに、
一日二句でもそれなりの苦労はありますが、
またそれ以上の楽しみや喜びもあり、
季節の移ろいを
若いときに比べて意識するようになったのは、
もちろん齢を重ねたことにもよるでしょうけれど、
句作の効用であろうと思われます。
それと、
駄句をひねって苦吟しながら、
上記の本を眺め、
先人のすぐれた句に接すると、
ほうと溜息がでることしばしばで、
「かなわないなあ」と、
我が心の傲慢さが砕かれる具合ですから、
これまた大きな効用かもしれません。
思うところあって
独り句作を始めてから七年ほど経ちますが、
先日初めて句会に参加しました。
司会進行役の宗匠さんも含めて投句し、
初心者も経験者も関係なく
無記名状態で選句するということに、
限りない魅力を感じました。
民主的と言って、
これほど民主的なことは他にないのではと。
句会が座の文藝とよばれる所以を垣間見た気がします。
鼻糞な個性より伝統が大事と肝に銘じた次第。

・俳号をなににしようか初句会  野衾