蝙蝠

 

・木によらず空から来たる落葉かな

金子光晴の『IL』を読んでいたら、
こんな箇所にぶつかった。
「若い頃、小説家の鈴木三重吉から、その師匠の漱石先生を訪ねたとき、日南の廊下で陽にあたりながら留守番をしてゐた先生が、ちやうどいまの僕のやうな恰好をして、すたれもののやうにからだの一部にしがみついてゐるもののうす皮をゴムのやうにひきのばしてみせながら、『君、蝙蝠《かうもり》のやうぢやないか』と言つて歎じたのが、いたましかつたときいたのを、いままた、おもひだしてゐる。」
「すたれもの」とは何か?
上で引用した文章の前に、
「老人は、帙《ちつ》をひらいて、蟲くつた古書を曝すやうに、痩ずねをひらき、うすぼけたさがりごけ〔「さがりごけ」に圏点が振られている〕のかかつたあたりを光りにあてて、ぶらさがつてゐる蓑虫(蓑蛾にかへることももうあるまい)をあはれんで」
とあるから、
これは陰嚢、いわゆる金玉袋を指すものと思われる。
老人とは金子本人のことであろう。
ちなみに《 》は本文中のルビ、〔 〕内はわたしの記述、( )は本文通り。
さがりごけ【下がり苔】とは、サルオガセの異名だそうです。
なぜこうくどくどと引用したかといえば、
男のアソコを蝙蝠にたとえた漱石先生は、
さすがにエライ!
と思ったからであります。
このごろ銭湯が少なくなりました。
かつてそちこちの銭湯では、
湯に浸かる前や後の洗い場に、
しなびた蝙蝠がぶらんぶらんと行き交っていた。
あれは確かに蝙蝠に似ている。
年取ると、
男子のアソコは、
なんであんなにびろろ~んと伸びるのか。
分からん!
子どものころはちょんびりとした可愛い急須であったのに。
それはともかく。
引用ついでに、
最初に引用した箇所につづけて金子はこう書く。
「つくづく、老人などになるものではないとおもふ。」
げにげに。

・老人は股に蝙蝠ぶら下げり  野衾

いまと方向

 

・凩や風かんむり飛びにけり

西脇順三郎の全詩集から始め、
萩原朔太郎全詩集、金子光晴全詩集。
「全」というのがいい!
だってなにもかにも含め、
それで全部だから。
どれも千ページを優に超し、
大辞林なみの分厚さなれど、
なんだかよく分からぬ詩もあるにはあるが、
ゆっくり読み進むうちに、
詩に佇む「いま」に触れる
瞬間が訪れ、
しばらくは積分するその時間を
共に生きる気がし、
これはこれで、
替えがたくうれしい時間。
一冊の中にギュッと圧縮されていた時間が
ほどけ流れている、
とでもいうのか。
で、
詩人によって、
捉えている「いま」がそれぞれちがっている。
そこに触れることが嬉しいし、
楽しい。
生きる現実にあるのは未来と過去で、
現在は虚構であるけれど、
本の中、
詩の中にこそ「いま」がある。
そんなふうにも感じられ。
詩人というのは不思議な人種だと思います。
昔からほんと、
あまりおカネにならないのに、
いたわけですから。
詩人のイメージといえば…。
水族館で大群の魚が時計回りに泳いでいるのに、
一匹だけ底の砂につんのめったりし
反対方向に泳いでいる、
たとえばあんな類かもしれません。
田村隆一の本に、
たしかそんなことが書いてあったような。
大群と反対に泳ぐ魚がいて
初めて「方向」の存在に気づきます。
皆と反対に泳ぐ魚がいなければ、
そもそも「方向」に気づくことがない。
詩も詩人も面白い。

・凩や耐えて憂きこと忘れをり  野衾

気が置けない友と

 

・灯火のごとき黄葉横須賀線

二、三品の料理と旨い酒をつまみに、
気が置けない友と語る、
これが人生の楽しみでなくて
ほかに何があろう、
ということをしみじみ感じた休日でした。
洋の東西を問わず古来から、
詩人たちはその喜びを詠ってきたわけでしょうが、
年を重ねてようやく
その境涯に近づいたのかも分かりません。
いろいろ、
本当にいろいろ、
いろいろ、
悩み、不安、恐怖、落胆、悲惨等々、
マイナスの単語を上げればキリがありません。
先日、
福島第一原発事故後の福島を描いた
ドキュメンタリー映画を観る機会がありましたが、
『遺言』と題された映画の副題は、
「原発さえなければ」
その言葉は、
壁にチョークでそう書き残して自死した男性
のものであったことが、
映画を観ていると分かります。
今の政治の動きを見ていると、
政界というのは、
政治みたいなことをやってる業界で、
儲かれば
なんでもあり、
というふうにしか見えません。
嘆かわしいかぎりなわけですが、
そうであればあるほど、
「生きるために笑いまっしょ。」
に尽きるのだと思います。

・蒼穹に紅葉かつ散る宴かな  野衾