ごはん

 

・し残しの仕事忘れず忘年会

金子光晴の詩集『落下傘』のなかに
「ごはん」というが詩があります。
サブタイトルは「富士山麓にて」

「茶碗にもつた一杯のごはんは
日月とともに威《おほき》い。

はげた塗箸を前にした一杯が
みあげる雪の嶺のやうに、大空にそびえる。
先祖から、子孫につづく糧。」

と始まる詩の第三連に唸ります。
「茶碗にもつたごはんのあたたかさ。こころゆたかさも、むせいる淋しさも。
友よ。君は知つてゐよう。
僕も、しつてゐる。」
むせいる淋しさ…。
茶碗に盛ったごはんから
よく視ると
つぶつぶの湯気がでていて、
それは本当に
むせいる淋しさで…。
百姓でない光晴さんに、
なぜそういうことが分かるのか、
共感できるのか、
詩、
詩人というのは凄い。
こんな詩を
昭和十九年に作っていたことも驚きです。

女を愛したたえて生きたもう一人の巨人、
「ゲルニカ」を描いたピカソの最後の言葉は、
「女って、いいもんだよ」

・最早もう其処へ渡らず忘年会  野衾

詩集検索

 

・どうしても眼鏡曇るるマスクかな

一日文字ばっかり追い掛け疲れてくると、
立ち上がって腕を伸ばしてみたり、
階段で一階まで下り
また上ってみたり、
いろいろやるわけですが、
アマゾンの検索ページに「詩集」と入れるのもその一つ。
一ページに横三冊、
縦八冊の詩集がでてきます。
三×八=二四。
五〇ページありますから、
二四×五〇=一二〇〇。
わたしは著しく記憶力が低いので、
とてもじゃないが一二〇〇冊を憶えられません。
世の中には、
アマゾンの検索には引っかからない
もっとたくさんの詩集があるでしょう。
が、
わたしには一二〇〇冊ぐらいがよく、
なんでかっていうと、
とても憶えきれないからですが、
疲れたときに、
これをやることがあります。
詩集のタイトルと表紙絵を眺めているだけで
愉しい。
知っている詩人もいます。
ボブ・ディランの詩集なんかもでてきます。
忌野清志郎詩集とか。
歌手も詩を書く…。
そうか歌詞も詩か。
へ~。
知らない詩人について、
この人も、
周りが時計回りに泳いでいるときに、
水底の砂をつつきながら、
斜めになって
時計と反対周りに
泳がずにずれていく魚かと想像します。
すると愉快になってきます。
金子光晴なんて人は、
戦争中も
あんなヤバそうな詩を書いているぐらいですから、
生涯、
時計と反対周りに砂を躄っていたのか
と想像して、
詩も詩人も面白い。
ぐらいのところまで来て、
さてと。
ゲラ読みに戻るとするか。

・湯豆腐や豆腐に染みし薄き味  野衾

ホワイツの靴

 

・揺れ揺れて飾りの如き枯葉かな

何足か靴を持っていて
天候やその日に気分により、
とっかえひっかえ履いている中に、
ホワイツの靴があります。
濃い茶色で、
何度かクリームを塗り手入れをしたおかげで、
このごろいい艶がでてきました。
ちなみに。
弊社から上梓した
佐藤将人著『突撃!よこはま村の100人―自転車記者が行く
にも登場する靴修理のお店
ハドソン靴店のイケメンご主人も
ホワイツの靴を履いていました。
値段は高めですが、
履きなれてくると、
土踏まずの辺りの感覚がなんとも心地よく。
昨日も家の近くの坂を上っていて、
足裏の感触を確かめるために歩を緩め、
しばし立ち止まったぐらい。
ホワイツの靴底は土踏まずに密着してきて、
たとえが相応しいかどうかはさて措き、
好きな作家描くところの
相性のいい男女を連想させます。
荷風か潤一郎か、
宗薫か鴻一郎か、
はたまた♂♀の萬月か。
それはさておき、
この足裏の感触です。
高校の陸上部に所属していた頃、
アディダスの運動靴を履いていた時期がありましたが、
あのときの感触にほぼ近い。
アディダスのあの靴は、
ジョギングしていて心地よかったけれど、
ホワイツの靴は、
歩いていて心地よさが味わえます。
どこまでも歩いていきたい気分。
家は近すぎ。
靴底が減ったら、
ハドソン靴店に修理を頼みます。

・塵取りにすぐ一杯の落葉かな  野衾

桂川潤さん

 

・旭日や息白くして猿のごと

装丁家の桂川潤さんに
このごろいくつか装丁をお願いしていますが、
もともとのご縁は、
ご著書『本は物である 装丁という仕事』に、
拙著『出版は風まかせ』から引用してくださったことでした。
『本は物である』は、
本は物であることをていねいに説いた本で、
内容はもちろんですが、
お人柄がにじむ、いい本だと思います。
電子書籍が騒がれるようになってから、
本に関する本が多く出版され、
いくつか読んでもみましたが、
この種の本で
読後しみじみひっそりしたのは、
『本は物である』だけといっても過言ではありません。
わたしは乱読で、
読む本のジャンルは固定していませんが、
どのジャンルのものでも、
人柄に触れるもの、
それも、
いい人柄に触れるものを読みたい。
文はたしかに藝であるけれど、
仕事とあわせこれだけいろいろ
文に接していると、
藝を超え、
あるいは藝の裏づけとしての人柄
ということを思わずにはいられません。
桂川さんは装丁家ですが、
彼の書く文章は潔くスッキリしており、
そこが一番わたしは好きです。
透けて邪推することがないということは、
稀有なお人柄の証とわたしは思っています。
さて、その桂川さんですが、
『出版ニュース』に橋本照嵩さんの
二冊の写真集を取り上げてくださいました。
コチラです。
また、桂川さんのサイトはコチラ
面白いですよ。

・ばさばさと日捲り剥がる師走かな  野衾

アウスボイトゥング

 

・短日の瞬きまでも惜しみけり

語学が端から不得意なわたしではありますが、
そうはいっても、
大学では英語のみならず、
第二外国語まで履修しなければならず、
仕方なくドイツ語をとりました。
ほとんど全部忘れましたが、
アウスボイトゥングだけは憶えています。
これ、日本語に訳すと、
搾取。
資本家は労働者を搾取するの搾取。
声に出してみると、
いかにも搾り取る感じがし、
中身は嫌いですが、
語の響きが好きでした。アウスボイトゥング。
絞って絞って絞って搾り取る。
そうすると、
次のイメージはどうなるかというと、
擬態で木に似せ体を細くするあのフクロウ。ヒョ~ッ!
また、
百姓は生かさず殺さずも連想のうち。
というわけで、
資本主義であろうとなかろうと、
権力者は市井の民を、
古今東西
アウスボイトゥングしてきたわけですが、
このごろは、
貧乏人から搾り取るものが無くなり、
アウスボイトゥングも叶わなくなってきたのか、
きれいごとばかり並べても、
どうも最早、
世は搾取でなく
排除に向かっている様子。
この度の震災と福島第一原発事故以後の日本においては
なおさら。
排除されても
生きていかなければいけない民は、
どうしたらいいんでしょうか。

・短日や日向追ひかけ丘の上  野衾

精神と物質

 

・秘め事を暴かれしごと蟹茹だる

高校の修学旅行で京都に行った。
京都を訪ねるのは初めてのことで四十年前ということになる。
清水寺は何日目だったろうか。
改修工事をやっていて、
工事現場の建物に人が立ち入らないように
との意図からか、
巨大なシートが被せてあった。
シートには請け負った建設業者の名前が記されていた。

そのときの印象が忘れられない。
とりあえず、
持参したカメラで写真に収めた。
あのとき感じたことを思い出してみると…。
寺は精神を表し、
深遠また深淵への入口だと思ってい、
利潤追求を旨とする経済行為を担う工務店や株式会社とは
よもや合体できるとは思えず、
それが赤裸々
青空の下で繰り広げられている状況が
拙い十代の眼に新鮮に映った
ということだったのだろう。

このときの印象に近いものを
自分の半生から検索すれば、
インドはヴァラナシ、
マニカルニカ・ガートで目にした遺体の火葬ということになる。
神秘的な雰囲気など微塵も感じらず、
青空の下、
裸よりも裸がごろりごろんと、
裏返った精神が剥き出しのまま焼け焦げていた。
悲しみよりも笑いに近く。
焦げた笑いを持って帰れるものならば
持って帰りたいとさえ思った。
人生は間違っていやしないか。
人生観は人間によって偏向されていやしないか。
強烈な匂いだけが効いていた。

・黄金の銀杏落葉を見上げたり  野衾

蝙蝠 2

 

・香箱をつまみ尽くして箱残る

漱石先生が日向ぼっこしながら、
己の陰嚢の皮をひっぱりひっぱりし蝙蝠みたいじゃないかと、
鈴木三重吉に語った話からの連想ですが、
(こういう話からはなぜか連想が拡がります)
陰嚢の皮だけでなく、
痩せぎすの老人というのは、
体全体が蝙蝠的。
蝙蝠というのは、
肉がない感じでまさに骨皮筋右衛門。
ん~、
例えば、川端康成さんのような。
銭湯に行き脱衣場で服を脱いでいると、
川端さん風の老人が少なくありません。
蟹股の老人が
猿股をようやく足から抜き取り、
よろよろしながら
誰も見ていない前を隠し湯舟に向かう姿は、
大きな蝙蝠が歩いている姿に見えないこともない。
いや、見える!
とくに、
痩せた老人の尻というのは、
人生の荒波に揉まれてか、
大殿筋がすっかりこそげ落ち、
頬がこけたようにこけ、
こけこっこー、
いや、
冗談でなく、
哀れがっちゃぎ。
老婆の垂れ乳と
老爺の垂れ尻ほど
人生の悲哀を感じさせるものはない。
年をとれば人は皆、
蝙蝠になってちょぼちょぼ歩き、
やがて傘のようなる羽を拡げ、
まだ見ぬ世界へと独り旅立って行かねばなりません。
嗚呼。

・海鼠噛む我の歯未だ大丈夫  野衾