点字図書

 

・落葉踏みランドセルの子ら帰る

拙著『出版は風まかせ』が点字でも読めるようになります。
札幌市視聴覚障がい者情報センターから連絡がありました。
「障がい」の「がい」だけ平仮名なのは、
「害」と「碍」の使用についての論議を避けるためでしょうか。
それはともかく。
ボランテイアの方からの推薦があったらしく、
これから点字入力にかかるとのことでした。
入力が終わったあかつきには、
サピエ図書館に登録されるのだそうです。
「サピエ」とは?
「視覚障害者を始め、目で文字を読むことが困難な方々に対して、
さまざまな情報を点字、音声データで提供するネットワーク」
とホームページに説明がありました。
こちらは「障害者」と漢字で表記されています。
出版人としては文字が気になります。
それはともかく。
サピエ図書館に登録されると、
全国どこからでもアクセス可能になり、
点字プリンター(! そういうプリンターがあることを知らなかった)
で出力し読める
だけでなく、
パソコンに音声ソフトが入っていれば、
音声に変換し聴くこともできるようになるのだとか。
なんと画期的!
ということで、
書き手としては嬉しいかぎり。
なのですが、
ここで、ん! 待てよと。
前に勤めていた出版社時代のエピソードを綴った箇所に、
確かこんなことが書いてあった。
いや、書きました。
「それにしても、有名な明治期の弁護士の息子の弁護士、嫌なヤツであった。
このヤロウ、貴様何様のつもりでえ、糞して死ね! この便後死野郎!! と
ビルを見上げて叫んでみたものの、ただの負け犬の遠吠えに過ぎなかった」
ここんところで、
「糞して死ね!」と言ったあと、
「この便後死野郎!! 」便(=糞・クソ)した後の死で便後死、
とダジャレを発し、
それを文字で表記したわけでありましたが、
こういう品のよくない箇所も
点字にするんでありましょうか?
ここを品よくやっていただくと、
当時における怒り、悔しさ、自己嫌悪等々、
入り組んだ感情が減殺されてしまいますから、
なるべくなら、
可能ならば、
そのまま点字に変換していただきたいとは思いますが…。
いずれ、
サピエ図書館にアクセスし、
音声ソフトをつかって、
その箇所だけでも聴いてみたいものです。

・反省と後悔ふわり落葉かな  野衾

同行二神

 

憂鬱なる日
この感情をいかに名づけん
「ストレスにかかったネズミ」
はたまた我は
気鬱片片、落胆悶悶
消沈枯渇、陰陰滅滅
落魄悲観、情欲悲願
欺瞞散漫
女、女、オンナ
筋金入りの好色漢

熱を帯びたる朔太郎、恋魚淫魚の哀しさ一夜
手痛

停滞
彽徊徘徊、徘徊老人
悔恨変色、眩暈不安
不満恐怖、疲弊憔悴
予兆や延延と鳴り渡る

いくつの慰哀字連ねても
名づけ得ぬもの在り
名づけ得ぬ
ゆえ
抜けられぬのか
ラスコーの壁画や哀し
情調の波に揺れ
影は揺れ
影ひびく
木々の葉裏白く輝き
光《ひかり》大波
未見戦慄、同行二神

ともにいませよ
名づけ得ぬもの
名づけ得ぬ今の
いま
名づけ得ぬゆえ
生きてゆくのさ
生死の境を生きてゆく
我はまた神なのだ
誇り高き神ゆえに
キ、チ、ガ、イ、じ、み、た、り
いま感情の涯
大感情の空を
航《わた》ってゆく
同行二神
航る
航る
ほがらの空を
孤独の家郷、寂寞の野へ

人情に触れたくなると

 

・コンビニでケーキ五個にて三百円

季節のせいでもあるのか、
はたまた加齢のせいなのか、
世の中がつまらないなぁ、
寂しいなぁ、
てなことが脳裏をかすめる、
だけならまだしも、
胸に沁みてくることが間々ありまして。
そんなときは、
寅さんを観ます。
全巻は持っていませんが、
DVDを二十本ほど持っていますから、
とっかえひっかえ。
回を重ねて観ているので、
ストーリーはとっくに知っており、
じゃあなんで観るのといえば、
子どもが好きな絵本を見る類かもしれません。
細かいところに発見があります。
間とか、言い回しとか、目の表情とか。
あと何度聴いても痺れる
寅さんのあの啖呵売。
「物の始まりが一ならば国の始まりが大和の国、 島の始まりが淡路島、
泥棒の始まりが石川の五右衛門なら、助平の始まりが……」
山田監督が惚れたのも頷けます。
どの回でもいいですが、
おしえられるのは、
誰に限らず
一人ひとりは寂しくて、
寄り添って生きているなぁということ。
それが胸を打ちます。
例えばリリーと寅さん。
浅丘ルリ子演じるリリーにやさしい言葉をかけるときの寅さんの声質ったら…。
そりゃ泣いちゃうよ。
天才俳優・渥美清の至芸の一つではないでしょうか。
私事ながら、
今年、
なんとも落ち込んだ時期があり、
土日をかけ、
八本観たことがありました。
それはそれで
目と肉体は疲れましたけれど、
疲れとともにこころが仏、
いやほどけ、
なんとか砦に居つづけることができました。

・蟻でなしケーキセットに人だかり  野衾

微妙のこと

 

・ねこはいをよみてわれまたねことなり ニャ~

十四年続けているこの日記ですが、
もともとは、
出社してからパソコンを立ち上げ、
その日の一番の仕事として入力していたのを、
ある理由から思うところがあり、
早朝自宅のパソコンで入力し、
管理画面を開いてアップするようになって、
現在に至ります。
今となっては、
この時間がいちばん、
静かで、落ち着き、垂直にいられる至福のとき。
そう感じます。
これを書こうと前夜から考えていて書くこともありますが、
そういうのは少なくて、
多くは、
パソコンを立ち上げてからの行いです。
割とすぐに書く内容を思いつくこともあれば、
かなりな時間、
たとえば三十分、ときに四十分、
一時間を過ぎることもないわけでなく、
待って待って待ちます。
待つということ。
わたしはこれが苦手です。
が、
待っていると、
ふとアイディアが、
端的にいえば、
言葉がといっていいでしょう、
それがやってきて、
そうすると、
急いでキーボードを打ち始めます。
一日が恩寵から始まるといっていいかもしれません。
恩寵とはまず言葉。
それを思うと、
何が幸いするか分からない。
天の配剤まさに微妙、
また美妙、
きっと理由はあるのでしょう。
あわてず、騒がず、垂直でいたい。
どんなかたちでなされるのか、
分からないことのほうが多いです。

・くもり避けマスクずらして効果薄  野衾

驚く人

 

・定食屋デザート蜜柑に顔顰む

朔太郎の詩を読んでいると、
プッと吹きだすことがしばしばで。
なんでかといえば、
どうもこの人は何事によらず物に触れ驚く人のようで、
本人は素直に驚いているのでしょうが、
そして本人は
それが苦しくもあったでしょうが、
立ち止まり脅威に曝されアワワと驚いている様子が
じつによく伝わってます。
本人が本気であればあるほど、
見ている客は読者は可笑しく感じ、
それから悲しくなります。
例えば、
有名な『月に吠える』の冒頭「地面の底の病氣の顔」
(……………)
冬至のころの、
さびしい病氣の地面から、
ほそい青竹の根が生えそめ、
生えそめ、
それがじつにあはれふかくみえ、
けぶれるごとくに視え、
じつに、じつに、あはれふかげに視え。
(……………)
という詩句がありますが、
読んでいて萩原さんの、
朔太郎のことですが、
萩原さんの驚いている姿が彷彿と浮かんできて、
じつに可笑しいわけです。
で、
だんだん居たたまれないような感じがしてきます。
苦しかったろうなぁ。
苦しくて、
自分をもてあますことも多かったのじゃないでしょうか。
朔太郎の詩には、
上で紹介した詩もそうですが、
「じつに」とか「非常に」とか「よにも」とかがよくでてきます。
推敲の段階で本人も気づいたでしょうけれど、
ドライブがかかってことばがでてくるとき、
本人驚いているものだから、
どうしても「じつに」「非常に」「よにも」
がじつによく登場することになります。
朔太郎の詩は、
いわば「じつに」の詩といえます。
偉大な喜劇俳優にしてストーンフェイスの
バスター・キートンが偉大なように、
朔太郎も偉大です。
二人はよく似ています。
実際もよく似ていたようです。
バスター・キートンの滑稽さは痛いほど。
ハイフェッツに似ているといった人もいたようですが。
それはともかく。
朔太郎の詩を読みながら、
どうしようもない萩原さんの悲しみを思わずにはいられません。
苦しかったと思います。

・人よりも車中マスクが徘徊す  野衾

本のこと

 

・皮剥いて渋皮剥いて蜜柑かな

恩師からケータイ電話にメールをいただきました。
この日記にもリンクを貼りましたが、
先だって図書新聞に掲載された
東京堂での対談の記事が「難しかった」
というものでありました。
学識のある方で、
またメールの文体からして
半分は冗談かなと読みましたが、
ケータイの画面を離れ、
ふと、
小さい頃、
わたしは本に親しんでいなかったなあと思いました。
本を読むことはわたしにとりまして、
いわば大人の世界であって、
子どもは本を読まぬもの、
本を読まないのが子どもだよ、
という見方を、
自分の経験からしているところがあります。
に比べ、
メールをくださった恩師もそうですが、
小さい頃から本に親しみ、
本を楽しんで読む方たちがいらっしゃいます。
うらやましく思う気持ち半分、
そうやって読むのが本当だろうなあと思いますが、
いまさらどうすることもできません。
本は、
楽しくないこともありませんが、
なくてもどうってこともない気もします。
わたしの場合、
楽しく読むというよりは、
少しでも先人に近づきたい思いで
読んでいる節もありそうです。
他人事みたいですが…。
いわば勉強か精進か二宮かといったところでしょう。
なので、
いまはまだ本を読んでいるけれど、
いよいよ年をとり、
肉体の消滅が現実感を増したなら、
本など読まなくなってしまうような気もしますし、
それでいいとも思います。
人生の中ほどは、
本を読んだということで。

・朱欒とはザボンのことと知らざりき  野衾

よるのひらがな

 

こどものころ いえに ほんがなかった
がっこうに かようようになって
ほんをよむことを おぼえた
ほんに しがみついた
いつしかほんは じんせいになった

ものに ながあり
いちたすいち
アフリカ
かまくら
れんあいのもとの せい
とろける べっこう
のまえのそらは
(おらだきゃ しらねでゃ)
しろく ぬけてあり

ほんをしってから
ほんはいろいろ せかいをひろげてくれたたけれど
どうしてもひろがらぬ せかい
があった
それは わたしの

ほんをよんでも よまなくても
おなじこと
えらいひとの しも
えらくないひとの しも
しは びょうどうで
すべてのことが

みたいなものにおもえてくる
なにもかも わたしと
かんけいないことにおもえてくる
わたしの

おとさん
おかさん
かみさん
かみさん?

ほんをはなれ
し を
はなさないで
いられるか
しを つかむか
しに つかまれるか
しを のみこむか
しに のみこまれるか
うまれるまえ
のまえ
にかえってゆく
しのうみへ
ほんをしってよかったと

てつがくのまえで
しのふちで
あしぶみしている ことば
をぬいで ねころんで
よだれたらして
かいものにあきたしょうねんのように
ほうけていたいのさ

ひらがなのあんしんと ふあん
のようなもの
しょうがいをひらがなでしかかんがえてこなかった
そうぞうのやぶれめ
しょうめつの はて
ひらがなではじまり
ひらがなでおわることばは はずかしい
はずかしくても たち
さらされながら
ひらがなは
ちんもくのあしたへ
よはまだ あけぬ
なあなあなあなあ
まあまあまあまあ
ことばだ!
いや こえだ!
(おらだきゃ しらねでゃ)
おいこしてゆく
おいこしてゆく
いま
それ
わたしは ことばをしらぬ
しのまえの ことば
ことばでない しだ