風天

 

・遠くより音叉のごとき秋澄みぬ

『風天 渥美清のうた』(大空出版)を面白く読んでいます。
著者は、元毎日新聞記者の森英介さん。
「風天」は渥美清の俳号で、
たとえば、
こんな句をつくっていました。

○蓋あけたような天で九月かな

○お遍路が一列に行く虹の中

この本は、
渥美清の俳句に焦点を当てたルポルタージュと、
発掘された風天二一八句の全解説(鑑賞は石寒太)
で成っていますが、
山田洋次監督の伝える話が印象に残りました。

「そういえば、こんなことを思い出しました。
『男はつらいよ』シリーズが十四、五回を超えたころかな、
批評家にマンネリズムだ、と新聞にやたら悪口を書かれました。
北海道のロケ先で林の中を渥美さんと二人きりで歩いているとき、
ウン、バサバサと落ち葉を踏む音まで覚えていますが、
僕は『とにかく僕たちは一生懸命作っている。
それを批評家は何故わざわざ悪口を言うのか。
気に入らない、評価しないと言うのなら無視すればいい。
わざわざ書かないで欲しいと思うよ』とぼやいたんです。
すると彼はこう言ったのです。
『作り手が自信を持ったときは、彼がどんなに謙虚であろうと努力しても、
傍から見ればどこか傲慢に見えたりするもんなんです』
そんな言い方で慰めてくれた。
僕は哲学者に話を聞いているような気がして、
なるほどなあ、と感心したものです」

まるで『男はつらいよ』の一場面のような話。
この言葉、
車寅次郎が言わせたセリフだったのか、
渥美清が言わせた箴言だったのか、
はたまた
渥美清の本名田所康雄が言わせた真言だったのか、
「さしずめインテリ」の山田監督、
一本とられたようです。
「お天道様は見ているぜ」

・朝冷えや目玉ばかりがぎょろつきぬ  野衾

 

・十月の空や美智也の声すなり

帰路すっかり暗くなりまして。
皆既月食は始まったかな。
保土ヶ谷交差点を過ぎると小料理千成。
今日の客の入りは…
まずまずと。
大将かっちゃんが焼くサカナのいい匂いがしてきました。
引力をもつ匂いを断ち切り、
前へ前へ。
目の前を
小さな男の子の手を引いて
若いお母さんでしょう、
ちっちゃく歩いておりました。
男の子はオムツが外れたぐらいかもしれません。
とぼとぼ歩いても
わたしの歩くスピードのほうが速く、
難なく二人を通り過ぎ。
と後ろから、
「おサカナを焼いている匂いだね」
「アジだよ」
「え?! わかるの?」
「アジだよ」
「そうか。アジ好きだもんね」
「うん」
「アジのほかには何が好き?」
「シャケ」
「シャケか」
「うん」
「シャケのほかには何が好き?」
「アジ」
「ふ~ん」
「アジとシャケとアジとシャケとアジとシャケとアジ」
「そっかぁ」
だんだん声は遠ざかり、
今度は虫たちの合唱です。
体は重く。
階段は長く。
きょうは月は見ず。

・疲れては人の声より虫の声  野衾

飯島耕一先生

 

・息殺し夜を深くす虫の声

詩人の飯島耕一先生が亡くなられ、
もうすぐ一年が経ちます。
昨年の十月十四日に先生は亡くなられました。
先生から
多くの自著をいただきながら、
全部を読んでいたわけではありませんでした。
先生がわたしに
種をまいて下さったとでもいうか、
遅まきながら、
このごろとみに
詩が面白くなってきて、
そうしたら、
先生の本のどのページを開いても、
そばで親しくお話を拝聴しているぐあいで、
書かれてあることが、
詩も評論もエッセイも
こころにすっと入ってきます。
例えばイロニーと諧謔を、
先生はこういうふうに考えておられたか、
と納得してみたり。
ときどき本の中に短冊とは別の
短い手紙が入ってい、
端正な文字がひっそりと佇んでいます。
しばらく本を読む手を休め、
先生の字に眺め入ることしばし。
本を読むことは著者との対話である
とは、
字面では知っていましたが、
先生の本を読んでいくうちに、
そのことを今、
新たに発見しました。
生きてあることは騒がしく、
騒がしく、
一晩眠ったあとの思考が澄むように、
亡くなったひとの言葉が
澄んで聞こえてくるようです。

・しんしんと昼の景色の露に入る  野衾

アッチムイテホイ

 

・呆け居る喧嘩の後の台風過

詩がわからない 詩がわからない
と つまずきなげきあきらめぐぜり
その気持ちは 今もあるけれ ど
あるときから なんでか
なんでだか
詩が気になりはじ め
詩を詩のようなものを
書きはじめた

パソコンにはいった詩のファイルをみたら
二〇一一年一〇月がさいしょで
東日本大震災がおきて七か月がたっていた
福島第一原発事故後の政府の欺瞞嘘八百に愕然とせぬニンゲンがいたらあってみたい
非核三原則のうらで みつやくが あった
沖縄返還のうらで みつやくが あった
みつやくにつぐみつやく
没薬モツ焼きモツ煮込み
アッチムイテホイ
〈いかさぬよう ころさぬよう〉
政《まつりごと》の
いまも変らぬ
〈いかさぬよう ころさぬよう〉
人殺しの呪文

詩の大鍋よ降りてこい 降りてこい
アメリカも ロシアも 中国も
等し並みに われとひとと
入れる 要れる
大鍋よ 降りてこい
拠り所などないのさ
ことばは つつむ
ためにある

詩は 死に 似ている
どちらの 死?
いずこの 死?
詩は他人が書くとJ.N.がいう
果して 死は
帽子の下の烏の足跡
アッチムイテホイ

・大慶や江の島リ・古典秋の空  野衾

 

・天上より鬼見る下は秋祭り

何度目かの江の島にやってきた
『男はつらいよ 寅次郎あじさいの恋』
のロケでつかわれた
江ノ島亭で早めの昼食をとる
鳶が
亭の窓からわずか三メートルほどのところまで近づき
マンタのような露わな腹を見せ
旋回しては遠ざかり
また寄ってくる

江ノ島は数度来ただけだから
忘れてしまったわけではない
が はっきりと覚えている わけでもなく
忘却と記憶の渓
幽かで隠微な接触面を滑っていく
クヂル ナメル ネヂレル チヨス

鳶が二羽上空で 交叉しつつ 落ちていく

メキシコ人のような女三人
手話で話している
一人は紺と黄のチェックのシャツ
一人は黒のカーディガン
髪の長い一人はまだ若く黒のレギンスにジーンズのミニスカート グレーのヨットパーカー
三人ときどき 声にならぬ声を漏らす
ハッ ハッ
バッ バッ
アッ アッ アッ
フッ フッ フッ
マッ マッ マッ
交歓淫楽 猥褻の手ぶり 律動を波立たせ
無音の饒舌を 攪拌す
とろけ とろけ 唾がとぶ

鳶は 空と 秋を攪拌し
にんげんは 堕ちてゆく
けふの憂い
大空の笑いは 跳ねろ

ハッ ハッ ハッ
バッ バッ バッ
アッ アッ
フッ フッ
マッ マッ マッ マッ

・曇天下危機を孕むや能舞台  野衾

いのちのリレー

 

・朝焼けが鰯雲にうつっています

新井奥邃の名を当時
あらいおうすい と正しく読んだのは
横浜国立大学の中国文学の教授ただ一人
当時
というのは
著作集を出すまえのこと
完結したあと
詩人の飯島耕一さんに一セットお贈りした
凄まじい勢いで読んでくださり
雑誌に論考を発表された…

いのちのリレー 連綿と
古代からの灯を絶やすことなく
身近のひとに渡す 渡す
以外に 何の生きる意味がある

静謐晴朗なる
肉のうねり捩れに淫し
傷つけ 傷つけられ
恥ずべき誤魔化しは 棚に上げ
誤魔化されたを 憤り
それでも誠意だけは失くすまい
と糞バッタ 誠意?
誠意などどこに ある
指が細くなり
筋張った 指の間から
硬化した誠意の欠片 キラキラと剥がれ落ち
剥がれ落ち
風に早くも飛ばされ ひるがえった

いのちのリレー
平成気圏の中へ手を伸ばす
平静神息を いのちに宿し
新しいいのちへ と
つなぎますよう に
ZYPRESSENと賢治がいう
不言の言の
激情秘めたるツィプレッセン

・鰯雲辿り辿りて富士の峰  野衾

汗った?!

 

・昼秋刀魚而して夜の秋刀魚かな

むかし『老人力』という本がありまして、
書いたのは赤瀬川原平さん。
年とることを悲観的に考えず、
むしろプラス思考でとらえることによって、
みたいな。
かなり話題になり、
面白そうだし、
赤瀬川原平さん嫌いじゃないし、
買って読んでもよかったのですが、
立ち読みぐらいはしたかもしれませんけれど、
結局買わずにそれっきり。
なんでこんなことを言っているかといえば、
我が身のことから、
急に、
赤瀬川さんの本と
「老人力」という造語を思い出したからです。
前置きが長くなりました。
下の写真をご覧ください。
こういうものが台所に置かれてありました。
家人が購入したのでしょう。
早朝、
寝ぼけ眼で台所の灯りをつけたとき、
これが目につき、
ほんの一瞬ではありましたが、
「汁」が「汗」に見えた!
冷や汗の素?!
まさに冷や汗。
すぐに勘違いに気づき眼が覚めました。
「汁」と「汗」では
横棒一本だけの違いですから、
夢うつつ状態では、
あえなく飛んでしまいます。
ところで一本といえば、
『わら一本の革命』という本がありました。
関係ありませんけど。

・秋澄むやこころは遥か山頭火  野衾