虫は

 

・鰯雲寂し黄色くなりにけり

いよいよ本格的な秋となり、
朝晩虫の声が耳を楽しませてくれます。
秋の句虫の句で好きなものといえば、
山口青邨の
「こほろぎのこの一徹の貌を見よ」
コオロギの顔はたしかに
「一徹」としか言いようがありません。
山口先生、
コオロギの顔をまともに見て、
つくづくそう思ったのでしょう。
一徹か。ほんとうに。
生まれたときから死ぬまで、
また死んでも、
形のあるうちは、
ずっとあの顔かと思うと、
なんだか可笑しい。
きのう道端にスズメバチが横たわっていました。
生きているうちは、
とてもまともに近づいては見れませんが、
死んでいるので、
どんだけ近づいても大丈夫。
そばに寄って
矯めつ眇めつ眺めていました。
なんとも格好がいい。
こんなふうにはいきません。
蜂は春の季語ですが、
まあいいことにして。

神奈川新聞に春風社創業十五周年についての記事が掲載されました。
書いてくれたのは「自転車記者」こと佐藤将人さん。
コチラです。

・スズメバチ死して兜の硬きかな  野衾

ほぼ全点フェアin東京堂書店

 

・寅さんの秋やちやらちやら御茶ノ水

神田の東京堂書店三階フロアにおいて、
春風社創業十五周年にちなみ、
ほぼ全点フェアが開催されています。
来月いっぱい。
二面の壁全面と壁手前の低い棚もつかい、
ジャンルごとに本が並べられ、
棚ざし面だしされています。
お運びいただければ幸いです。
会社を起こした頃、
「おたくの会社は、流行らない八百屋のようだね」
と冷やかされたことを考えると
隔世の感がありました。
「流行らない八百屋」とは。
そのココロは?
札だけあって品物が少ない…。
当時、
今よりずっと若かったし、
血の気も食い気も多い年頃でしたから、
チクショー今に見ておれ! きっと、きっと、
なんて力んだものですが、
いま考えれば、
なんであんなに悔しかったのかが不思議。
むしろ、
「流行らない八百屋」
そのココロは、
札だけあって品物が少ない…。
座ブトン一枚
というところではなかったでしょうか。
会社創業の時期というのは、
出版社はもちろん
どの業種であっても、
「流行らない八百屋」を経験しなければならないはずですから。
昨日、
フェアの設えを見、
担当の方のきめの細かい仕事ぶりに感動しました。
創業以来一丸となって「いい本づくり」
を目指してき、
いまもその気持ちに変りはなく、
今こうして、
老舗の著明な書店で
フェアをしていただけるようになり
まことにありがたく思います。
他方、
妙な感覚に襲われもしました。
たしかに
欣喜雀躍ものではありますけれども、
うれしいココロを抑え
パッと見渡したとき、
ほかの棚より劣っていると感じない。
(それだけ東京堂の棚ぞろえがどの棚も
きめ細かくできていることの証でもあるでしょう)
幾重にもうれしくはありながら、
誤解を怖れずに言えば
「特別な感じ」が無いとでもいうのか。
つらつら慮るに、
東京堂の棚に並ぶ本たちは、
本づくりにかける各出版社の思いが
ていねいに汲み取られ、
ニコニコ並んでお客さんを待っている舞っている…。
その意味でウチだけ特別なことはない、
それでいいと思いました。
そういう棚に
ウチの本も置かせてもらっている。
むしろこれからは、
ココロを際だたせるよりも、
すぐれた先人に学び、
ほかから抜き出る方向でなく、
ほかのいいところを謙虚に習い、
真似て、
それを世に送り出す本に
溶け込ませつつ、
歴代の出版社の仲間に入れてもらい、
少しでも伍していければ
という願いのほうが強くはたらいた、
のだったかもしれません。
今月二十日には文藝春秋前社長との対談が行われます。
胸を借りるつもりで臨もうと思います。
こちらもどうぞお運びくださいませ。

・鰯雲ひとに告げたきこともある  野衾

落日

 

・秋風や鼻先掠め合流す

丘の上の洋館へとつづく
階段を
プラチナの太陽
が昇つて いつた

んがり屋根
のうえ

クロウ クロウ クロウ
ヒョン ヒョン ヒョン
クロウ クロウ クロウ

はるかの
彼の曖昧なる
記憶
ギンガギンガ
の夕陽
まだ落ちずに いる
縁側に佇む K先生
モンブラン
モンモラン
シー

ワンス・アポン・ア・タイム
おたのしみはこれからさ

・秋風や閨ならずとも快の声  野衾

左手にケータイ右手に珍

 

・くさむらや四次元のみち虫すだく

打ち合わせのため大森へ。
約束の時間より少し早く着き、
小用を足しに
駅トイレに向かう。
六、七段の階段を上ったところに白い便器が並んでいる。
奥から二番目の便器の前に立ち、
身を捩じらせていると、
わたしの後から入って来た
若いビジネスマン風の男性が、
男子用トイレなので言わなくても男性なのだが、
若いので、
ササッと珍@宝を出し、
液体は
すぐにきれいな円弧をえがいて迸った。
わたしの体の奥から
尿意のマグマがようやく盛り上がりを見せた頃、
若きビジネスマンのケータイが鳴った。
ビジネスマン、
あわてて左手でケータイを操作し
電話に出る。
お見事!
「はい。はい。○○商事の▲■です。はい。はい。すみません。
少々遅れまして。いま大森駅に着いたばっかりで。
はい。トイレに居るものですから。はい。
すぐに参ります。ええ。ええ。……」
その緊迫した電話の最中も、
パンツは尻の中ほどまで下ろされ、
珍@宝は右手指先によりしっかり把握されていた。
笑うに笑えない。
ビジネスマンだ。
パンツとズボンをササッと元通りにし、
棚から鞄を下ろして便器を離れる。
わたしの間欠泉的小用は
いよいよもってそろそろ終盤を迎え、
体と臓器に感謝しつつ
便器を離れる仕儀となった。

・秋雨や吸ふて濃くなる深くなる  野衾

なにとはなく

 

・出てみれば匂ひ秋風眩しかり

わたしはいま五十六歳なので、
初老ということかもしれず、
十一月で早五十七歳になります。
他人事のようですが、
他人事でなし。
この間、
何を覚えたかというと、
酒を飲んでも二日酔いにならぬよう、
その手前のところでストップするようになったこと。
これが大きい。一番。
酒を飲んだ翌朝の二日酔いでない状態は、
それはきょうで、
しばらく呆として窓の外を眺めたり、
痒みを思い出しては
顔を撫でたりしている。
ああ俺はこうして年をとってゆく。
机の下の小さな本棚に並べてある本の並びが気になって、
なにともなく並べ替えてみる。
これでよし!
男宇宙。
男鬱中?
ねぇ あんた

・天高し雅楽の音は象に似て  野衾

Ambarvalia

 

・出てみれば秋風ノドを鳴らしたり

詩集『Ambarvalia』は西脇順三郎の詩集。
Ambarvaliaはラテン語で、
「古代イタリアで行われていた穀物や葡萄の収穫祭のこと」
の意味だそう。
意味が揮発し
空かどこかへでも
飛んでったようなこの詩集の詩たちを、
かくれてではないけれど、
ひそかに読み
だいじに愉しんでいる。
ふるさと秋田のAmbarvaliaはどうなってる。
というわけで、
さっそく秋田に電話した。
今月16日が両親ともの検診の日で、
それが終ったら稲刈りや
と話し合っているらしく、
秋田のAmbarvaliaはもう近い。
黄金の風が吹くさ。

・鰯雲この写真集のふはりふは  野衾

ヤマトタケル

 

・坂道を上る虫鳴く雨の降る

ヤマトタケルといえば古事記の英雄、
若く知恵あるものとして登場しますが、
知恵も度を超すと狡猾となる。
出雲の国のイヅモタケルという頭を倒す段は、
どうみたって知恵あるものとは呼べないだろう。
友の契りを結んでおいて
相手の気をゆるませ、
肥の河に水浴びに誘う。
ヤマトタケルは事前に木刀を作って身に帯びていたが、
水浴びの後、
イヅモタケルに刀を交換しようと持ちかけ、
イヅモタケルはまんまと罠にはまり、
気安く刀を差し出し取り替えた。
友の契りを結んだのだから
というわけで、
誘いに乗ってしまったことが命取りになる。
太刀合わせの結果、
イヅモタケルは殺されてしまう。
それもそのはず。
ヤマトタケルから渡された太刀は、
木でつくった偽物の太刀だったのだから。
ひどい! ひどすぎる!
ヤマトタケルって、こんなやつだったの。
これが日本書紀の記述だと全然まったく違うそうだ。
いたってお利口さんになっているらしい。
このあたり、
古事記と日本書紀の成立事情も垣間見えて面白い。
それと、
こういう荒削りで悪知恵のはたらく
ヤマトタケルのほうが
わたしは好きだ。
人物造形として圧倒的に魅力的。
古代インドの叙事詩
マハーバーラタを読んだときも、
この人物ってどうなの
と思える箇所がけっこうかありましたが、
近代小説以降、
登場人物の性格描写が複雑になっているようで、
実はそうでないのかもしれず、
それどころか、
痩せた造形に堕している可能性もある。
たとえば紙芝居が、
印刷に付され
教室でつかわれるようになると、
おとなしいいわゆる
「教育的」なものになってしまうように。
街頭で紙芝居のおじさんが演じる紙芝居は、
俗悪なところがあっても、
それをふくんで血湧き肉躍るものだったのだ…。
そんな連想も浮かんでくる。
古事記は骨が抜かれていない。

・はらわたの苦きも嬉し秋刀魚かな  野衾