下版の日

 

・山頂を白く飾りて雲がゆく

著者から原稿をいただき組版を起こし、
何度かの校正作業を経、
これで良しとなったら印刷所に版下(はんした)を渡す。
版下を印刷所に渡すことを下版(げはん)、
あるいは降版(こうはん)という。
たとえば『新井奥邃著作集』全十巻の場合、
毎回版下を持ち、
都営地下鉄新宿線菊川駅近くの印刷所へ出向いた。
版下と台割(本のページ構成を記したもの)
を渡すと、
営業部長さんが工場内に設置された自販機で
缶コーヒーを買ってくださり、
ごちそうになった。
ただの缶コーヒーが
ただの缶コーヒーでなくなる。
「よろしくお願いします」と言って立ち上がり、
現場の方々へも挨拶してから外へ出、
ホッと胸を撫で下ろす。
この瞬間が気持ちよかった。
やれやれで。
愛煙家なら道端でやおら一服となるところ。
下版には、
心地よい緊張感と達成感が伴う。
それがこのごろは、
下版といっても物の授受はなく、
もっぱらPDFとやらのデータの送信で済ますことが多い。
本当に相手に渡ったのかどうなのか、
不安だ。
目には見えず触れもしないから、
まるで屁みたい。
が、
いつの間にやらそれが普通になった。
中身が変わったのだから、
いずれ言葉も変わるだろう。
昔を懐かしむ気が
ないわけではないけれど、
ちょっぴり相当あるけれど、
それはそれとして、
恩寵の緊張だけはなくしたくない。
今日は下版の日。

・風を呼び風と戯る猫じゃらし  野衾