定期健診

 

・天荒れて無音の夜の花火かな

三ヶ月ごとの歯の検診に、
行きつけの歯医者に行ってきました。
わたしを診てくれる歯科衛生士は、
名前は知りませんが、
いつもの人でした。
今回は検診に先立ち
医師によるレントゲン撮影もあり、
終了まで全体で一時間ほど。
すべてが終わって、
「今日はこれで終わりです。お疲れ様でした」と歯科衛生士。
「ありがとうございました」
「何か気になることはございますか?」
「気になるというほどのこともありませんが…」
「はい。何か…?」
彼女の眼がこころもち大きく見開かれています。
「ええ。昨日の夕刻六時四十五分頃だったと思いますが、
保土ヶ谷橋の交差点でおねえさんを見た気がしまして」
「えっ。ど、どんな格好をしておりましたか?」
「はい。白いTシャツにピンクのショートパンツ、サンダル履きにナマあ」
「あ゛あ゛、そ、それ、わたしです。恥っずかしい!!」
「そうですか。顔には自信があるのです」
「は?」
「あ。いや。自分のことでなく、人の顔を忘れないことにかけては、です」
「なるほど。お近くなんですか?」
「はい。交差点から見える丘の上です」
「そうですか。わたしは反対側のセブン、いえ、そうですか」
「これでスッキリしました。ありがとうございました」
「いえ。こちらこそ。恥ずかしい!」
「さようなら」
「あ。さようなら」

・ガツンとみかん道道ぐちょりねちょりかな  野衾

詩人のエッセイ

 

・夜半過ぎ月下何処の蝉の声

人生を深くかなしく味わっている
せいなのか、
無垢と罪と悪徳と
恥と死と
ユーモアとゲームの処在を知る
せいなのか、
(田村隆一は詩を死のように発音していたとほかの詩人が言った)
洋の東西を問わず、
詩人の書くエッセイは少し笑えて面白い。
W・H・オーデンの『染物屋の手』(晶文社)
一九七三年発行、
中桐雅夫訳、
A5判二段組四七八ページもそんな一冊だ。
長田弘さんの『私の二十世紀書店』、
これまた詩人の、本に関するエッセイでとっても面白く、
取り上げられている本を全部
読んでみたくなる麻薬のような本なのだが、
そこでも印象深く紹介されていたから買っていた
のを、
ようやくこのごろ棚から下ろして読み始めた。
例えばこんなところに目が行った。
「われわれが知っているたいていの文学作品は、
二種類のうちのどちらかに属する。
二度とは読みたくない本――ときには読了できないこともある――
と、いつも楽しんで再読できる本である。
しかし、三つ目の種類に属する本は、ほとんどない。
そんなにしょっちゅうは読みたくはないが、
われわれが適切な気分のときには読みたくなるような唯一の本である。
どんなにいい本でも、あるいは偉大な本でも、
この代わりをしてくれるものはない。」
その通りだなあと思って、ページの右上に付箋を貼る。
オーデンにとって、
「三つ目の種類に属する本」とは、
バイロンの『ドン・ジュアン』なのだそうだ。
『染物屋の手』は、
わたしにとって、
さしずめ「三つ目の種類に属する本」ということになろうか。
『染物屋の手』の口絵には、
オーデンのモノクロ肖像写真が掲載されている。
どうしたらこんな深い皺が刻まれるかと危ぶまれるぐらい、
まるで彫刻刀で掘ったような
文字通り深い顔だ。
自分の体験してきた人生と、
学校で習ったり
テレビや新聞で見たり読んだりしていた横で、
こんな人がこんなふうにも生きていたのかと思わされる
のがまた詩人のエッセイだ。
オーデンは、
一九〇七年生まれ。
一九七三年に亡くなった。
イギリス出身。その後、アメリカ合衆国に移住。

詩人ではないけれど、
弊社専務イシバシの『人生の請求書』が
神奈川新聞文化欄で取り上げられました。
コチラです。

下の写真は、秋田のなるちゃん提供。  くるむごと親が子を抱く胡瓜かな

・おもしろくやがてかなしき請求書  野衾

ベンチにて

 

・ありがたや切り身西瓜を捧げ持つ

保土ヶ谷駅ビル内、
住吉書房に向かう通路に設置されてある
木のベンチに座り、
読みかけの文庫本を読んでいた。
ビル内は冷房が効いて凌ぎやすい。
ベンチは四人がけするといっぱいで、
ひょいと見ると、
わたしが一番若かった。
あとの三人は女性、
三人とも齢八十は過ぎていただろう。
読み始めてから六ページほど進んだ頃、
一人措いて端の二人が立ち上がり、
目の前をスローモーションで横切っっていった。
空いた席に座ろうと近づいてきた女性、
「あら」と発し
足早に、
去った老婆二人を追い掛け
追いつき、
「忘れ物をしていませんか?」
「あらいけない。ありがとうございます」
一人が戻ってきてレジ袋を取り、
またゆっくりと、
さっきよりは気持ち速く歩いて去った。
わたしの隣りに座っている女性は、
涼んでいるのか、
だれかを待っているのか、
本を読むわけでなく
スマホを弄るわけでなく、
まっすぐを見てただ静かに座っている。
「すみません。お待たせしました」
本のページから目を離し
見上げると、
端正な顔の老人が目の前に立っていた。
「探していた本はありましたか?」
「ええ」
立ち上がりぎわの女性の横顔を見れば、
原節子、
のわけはないが、
彷彿とさせるものがある。
夫婦なのか、
古くからの友人なのか、
はたまた。
ゆっくりと歩いて去った。

・歩むごと灯りのごたる猫じやらし  野衾

字体

 

・シャクシャクと清音ひびく西瓜かな

大学時代からの友人S君から手紙が来ました。
前々回会った折に借りていたDVDを
前回持って行ったのに、
返すのを忘れてしまったという内容で、
プチプチ緩衝材つきの封筒に入れ送ってくれた。
今度会うときでよかったのに。
昔から律儀な友です。
それはそれとして、
ん!
と眼が留まったのは
添えられていた手紙の字体。
ボールペンで書かれたその字は、
たしかにS君の字であった。
便箋に書かれてはいるけれど、
大学時代、S君のノートに書かれていた字にそっくりだ。
それもそのはず。
S君はいくつになってもS君で。
同じ人間なのだから、
あたり前田のクラッカー、
てか。
が、
ちょっと感動した。
大学を卒業し、
時が流れ、
仕事がらロンドン行ったりニューヨークを経験しても、
可愛い孫ができても、
好々爺と呼ぶにはあまりに若々しいけれど、
変らない字の形を見て嬉しくなった。
S君は、
井上陽水の「傘がない」なんかを朗々と歌う。

秋田魁新報に拙稿が掲載されました。
コチラです。

・半島の光り熟して西瓜かな  野衾