まへを向く

 

・現れて飛行機が行く梅雨晴間

うへを向いて
でなく
まへを向いて ゆこう
涙がこぼれない
わけではない けれど
恥ずかしがつてばかりもいられない
それなら
まへを向いて ゆこう
よこばかりでは つかれる
したなら あぶない
涙と関係なく
たまには うへを見上げ
しかし基本 まへを向く
ただ
耳をすます 耳をすます

・六月を古墳跡地に雨が降る  野衾

写真集『石巻』編集に入る

 

・六月の雨降りしきる背中かな

弊社十五周年企画としてあたためてきた
写真集『石巻 2011.3.27~2014.5.29』の編集に入った。
土日二日間をつかい、
三年間で橋本照嵩さんが撮りためた
約十万カットのうちの半分を見終えた。
その都度、
橋本さんが選んで送ってくれたものを
「石巻から」と題し、
弊社ホームページにアップしてきたけれど、
まずは初めから全部を体に浴びたいと思った。
午前十時から午後六時まで、
橋本さんを入れ、
初日は四人で、
二日目は三人で、
途中、
睡魔に襲われたりもしながら、
とにかく見る、見る、見る。
尻の樋に汗が滲む。
二日目の午後、
一枚の写真に釘付けになった。
若い女性が土にスコップの先を当てている。
ザックと土を掘り返すような体つきではない。
なんの形? どういう形なのだろう?
分からないときは、
自分の体で真似してみるのがよい。
膝を軽く曲げ、
腰を落として背中を緩める。
掘るためではない。
探しているのだ。
スコップは手の延長として。
力が抜けてい、
まるで土に語りかけでもするように。
後ろにはバックホーの巨大な首、
ガッキと。
ああ、この一枚。
すべてはここから始まる…。
「今の天下いずくにか文明あらん」
ふるさとを撮ると決めたのだと橋本さんが言った。

・口よりも後ろ姿の語りけり  野衾

虚階

 

・大雨に捲れ剥がれて緑かな

木戸敏郎の『若き古代 日本文化再発見試論』は、
サブタイトルに
再発見とあるとおり、
こちらの薄っぺらな知識をめくり、
剥がし、
足裏に大地を、
双肩に宇宙を感じるような
めくるめく読みの体験を与えてくれるが、
この本で初めて知った言葉や概念も少なくない。
虚階もその一つ。
虚実の虚に階段の階と書いて「こかい」。
「日本の伝統音楽の演奏において、
「虚階(こかい)」という特殊な演出がある。
演奏家と聴衆との間にあるコンセンサスが出来ているとき、
例えば同じリズムパターンを反復しているとき、
その一部分を、音を出さず沈黙の状態にすることを「虚階」という。
聴衆は音がないフレーズを、自分の想像力で補って次のフレーズに繋げる。」
ここを読み、すぐに源氏物語を想った。
紫の上に先立たれ気落ちし、
出家した光源氏のその後を描く「雲隠」は、
これまでいろいろ取り沙汰されてきたようだが、
帖の題のみあって中身がない。
中身があったのに何らかの理由で消された
と見る見方もあるようだが、
ここは作者の紫式部が意図的に設けた「虚階」
と見るべきではないか。
またまたわたしの妄想は飛ぶ…。
日々の暮らしはだいたいが昨日と同じ今日であり、
ほんの少ししか違わない。
違わないのが日常だ。
だから、どんどん忘れる。
忘れ忘れて、
それでも忘れられない階(きざはし)が浮かんでくる。
かけがえのない思い出。
繰り返し繰り返し浮かんでくるたび、
虚なる階は決して虚ろなものでなく、
人生の実と彼方の空を繋ぐ確固たる階と思えてくる。
妄想は分裂を回避する。

・大雨や声無き緑清清し  野衾

荒事

 

・六月をフラれ寅さん見て過ごす

木戸敏郎の『若き古代 日本文化再発見試論』
を読み進め、
目からうろこが落ちる思いをしているが、
歌舞伎の演目「曽我狂言」についての考察にも
目を瞠るものがあった。
わたしはまだ観たことがないが、
曽我狂言というのは、
曽我兄弟が登場する芝居とそのヴァリエイションとのことで、
曽我五郎は弟で暴れ者。
に対し、
兄の十郎はやさ男。
歌舞伎では、
暴れ者の五郎のほうが主役で「荒事(あらごと)」、
やさ男の十郎が「和事(わごと)」で脇役というのが面白い。
この辺りからわたしは眼鏡を外し、
本を両手でつかみ、
本に顔をぐっと近づけて読み進める。
「「曽我狂言」は正月の演じ物である。
年の始めに曽我五郎の芝居を見るのが江戸っ子のならわしだった。
一年の冒頭に、舞台から発散される強いエネルギーを吸収しておくためだ。
舞台では五郎の力がいろいろな方法で表現されてゆく。
例えば“竹抜(たけぬき)五郎”といって、
地下茎が張っているはずの生えている竹を引き抜いて見せる。
あるいは“あくたい言葉”といって、罵詈雑言の限りを尽くす。……」
わたしはすぐに映画『男はつらいよ』シリーズを思い出した。
シリーズの多くにおいて、
映画の冒頭、
せっかく故郷に帰ったのに寅さんは、
ちょっとした言葉の行き違いから、
おいちゃんやタコ社長とつかみ合いの大喧嘩をする。
そのエネルギーたるやすさまじい!
年の始めに曽我五郎の芝居を見るのが江戸っ子のならわしなら、
年の始めに『男はつらいよ』の映画を見るのは
国民のならわしだったのだろう。
寅さんのエネルギーとやさしさに触れ、
また一年を頑張ろうと思ったのではなかったか。
わたしは『男はつらいよ』を映画館で見たことがない。
が、
ムシャクシャして
どうにもやりきれないときなど、
今もつい、
棚に並べたDVDの中から
適当なものを引っ張り出しては、
寝転がって見て楽しむのが倣いだ。
一本が二本、二本が三本。
やがて目頭を押さえたり、大笑いしながら。
そうしているうちに、
萎んで干からびたこころがちょっぴり息を吹き返し、
また頑張ろうかという気になる。

・雲流る林に蝉のしぐれかな  野衾

瀬戸ヶ谷古墳

 

・朝ぼらけ若き古代の土を踏む

わたしが住んでいる御殿山について、
城があったという話も聞かないのに、
なんで名前が御殿山なの? えらそうに、
みたいなことを
以前ここに書きましたが、
城はなかったけれど、
古墳があったことが判明!
その名も瀬戸ヶ谷古墳。
立派な前方後円墳。
小学校で習ったナウマンゾウ!
今の番地でいえば、
瀬戸ヶ谷町53といいますから、
なな、なんと、
まさにわたしの住むところ番地ではないか!
昭和二十四年の調査の結果、
出土品がいろいろ見つかったそうで。
古墳といえば、
古代における有力者の墳墓であり、
それを築造する場所ということになれば、
よくよく考えてのことのはず。
生きて住むのが城ならば、
死んで住むのが墓だから、
考えてみれば
同じようなものかもしれません。
ちがうか。
まあ、しかし、
古代人がこの丘に立ち、
旭日を拝んでいたのかと思うと、
なんだかふつふつと
勇気が湧いてくるなぁ。
ほーら、朝陽が昇ってきた。
いま読んでいる本が『若き古代』なんて
ちょっと出来すぎだぁ。

・髭を撫で古代人の丘に立つ  野衾

こころ 2014

 

・死ぬほどの恋をしたきとリリー泣く

からだは 皮袋だから
破れると 血が噴き出る
こころは
在るのか 無いのか

ふだん気づかぬから
道学者の言説を信じるフリして
腹で笑って
こころの所在など気にしない


痛いとなったら
やはり在るところに在るらしく
血を噴き出し
ここに在るぞと主張してくるから厄介だ
その痛さといったら

わかった わかった
わかったから もう止してくれ
ほら おまえの好きなものをあげるから
間違っても
ひとのせいにだけはするなよ

・降り止まぬ雨を松子のこころかな  野衾

ひとも年取る

 

・雲流る恋にやつれの寅次郎

寅さんも初めのころは溌剌としていました。
さくらはかわいかった。
さくらを演じた倍賞千恵子はおばあさんになり、
渥美清は亡くなり、
初代おいちゃんの森川信は亡くなり、
二代目おいちゃんの松村達雄は亡くなり、
三代目おいちゃんの下條正巳は亡くなり、
おばちゃんの三崎千恵子も亡くなりました。
DVDを観れば、
とっくに死んだ人が息をし、
笑ったり、泣いたり、はしゃいだり。
なんだかとっても不思議です。

・六月を遣り過したき心地せり  野衾