拝啓 矢萩多聞様

 

・本を閉じ珈琲の夜の満月

近著『偶然の装丁家』面白く読ませていただきました。
ゲラの段階で一度読み、
本になってざっと読み、
以後ずっと自宅の机上に置いてありましたが、
もう一度読んでみました。
今度は朝、ゆっくり、静かに。
そうしたら、
春先に眩しい陽光が差し、
たろんぺ(秋田弁。つららのこと)が融け始めて
水が温むごとく、
いろんなことがはらりと見えてきた気がし、
嬉しくなりました。
この本には、
多聞さんが不登校になった経緯も書かれていますが、
その時期の
心理の移行と変化がていねいに記述されていて、
インド映画『地上に星が』を思い出しもし、
幾度か目頭が熱くなりました。
たとえば二十ページ、
「ある日、音楽の授業中、先生はぼくをじろじろ見ながら、
「このなかに音痴がいる」と言った。」
その段落から次の段落へかけ、
心の変化をていねいにたどっているのに、
人の心の叙情というよりも
まるで化学変化の移ろいの
正確な記述を見せられるようで、
目が離せず、
何度も繰り返し読み返しました。
ある朝、登校途中
「とてつもなく冷たく暗い気分になった」あなたは、
「吐き気がして、足が進まな」くなり、
河原の柵にもたれて川を見ます。
「ころころ転がり流れる水を見て何十分たっただろう。
少しずつ気持ちが落ち着いてきたので、
歩いてきた道をとぼとぼ戻り、なんとか家にたどりついた。
玄関のドアを開くと、母は驚いた顔をして、どうしたの? と聞いた。
ぼくは泣いて訴えた。もう学校には行きたくない、と。」
この本には、
竹内敏晴さんも登場しますが、
多聞さんの今回の本、
多聞さんの『ことばが劈かれるとき』だなと感じました。
またゴーギャンの
『われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか』
を連想したのは、
かつて見せてもらった黒い表紙のノート、
あれはあなたがまだ保育園にも通っていない
ごく幼い頃のものでしょうか、
そのノートを思い出したせいかもしれません。
さて最後に、タイトルの『偶然の装丁家』について。
「装丁家」は分かるとして、「偶然」とはなにか。
偶然=たまたま然り。
この偶の字。
白川静さんの『字通』によれば、
「偶然」の偶は、遇に通じるとあります。
しかして遇とは?
『字通』に曰く、
「禺はぎょう(禺+頁)然たる姿のもので、もと神異のものをいう。
そのような神異のものに遭遇することを遇という。」
偶然の偶が遇に通じ、
人間わざを超えた神異にめぐり合うことだと知り、
ひとり合点がいった次第です。
神異に耳をすます多聞さんのこれからを
楽しみにしております。

・物思ふ残り少なの五月かな  野衾