・かはたれを五七五の五月かな
O先生と二時に横浜高島屋で待ち合わせ。
O先生との打ち合わせはここが多い。
正面入口を入ったところは、
外の様子がよく見え、
ここならという場所に手荷物を下ろした。
店内をゆっくり眺めていると、
あることに気がついた。
時間帯のせいもあるのか、
若い人がいないことはないけれど、
圧倒的にお年寄りが多い。
入口近くの椅子も、
店内を行き交う人も。
居心地がいいのかもしれない…。
やがて先生がいらっしゃって、
エスカレーターで三階へ。
喫茶室は満員で外に並べた椅子も満席に近い。
六階へ。
エスカレーターを降りたら、
制服を着た店員さんがいたので、
「資生堂パーラーはどちらですか?」
と声をかけた。
笑顔で「こちらです」
と、
間髪入れずに道案内に立ってくれた。
ちょっと意外な気がした。
その場で方向だけを示されるかと思ったから。
コーナーを曲がった所の喫茶室も外に人が溢れている。
歩きながら、
制服姿の彼女に、
「お仕事中、すみません」と言うと、
「いえ。どういたしまして」
ほどなく資生堂パーラーの飾りが見えた。
「こちらです。待っているお客さんがいますね。
少々お待ちいただくことになるかもしれません」
「ありがとうございました」
「いえ。どういたしまして」
居心地のよさの理由が分かる気がした。
・詩篇あり後頭からの旅路なり 野衾
・本を閉じ珈琲の夜の満月
近著『偶然の装丁家』面白く読ませていただきました。
ゲラの段階で一度読み、
本になってざっと読み、
以後ずっと自宅の机上に置いてありましたが、
もう一度読んでみました。
今度は朝、ゆっくり、静かに。
そうしたら、
春先に眩しい陽光が差し、
たろんぺ(秋田弁。つららのこと)が融け始めて
水が温むごとく、
いろんなことがはらりと見えてきた気がし、
嬉しくなりました。
この本には、
多聞さんが不登校になった経緯も書かれていますが、
その時期の
心理の移行と変化がていねいに記述されていて、
インド映画『地上に星が』を思い出しもし、
幾度か目頭が熱くなりました。
たとえば二十ページ、
「ある日、音楽の授業中、先生はぼくをじろじろ見ながら、
「このなかに音痴がいる」と言った。」
その段落から次の段落へかけ、
心の変化をていねいにたどっているのに、
人の心の叙情というよりも
まるで化学変化の移ろいの
正確な記述を見せられるようで、
目が離せず、
何度も繰り返し読み返しました。
ある朝、登校途中
「とてつもなく冷たく暗い気分になった」あなたは、
「吐き気がして、足が進まな」くなり、
河原の柵にもたれて川を見ます。
「ころころ転がり流れる水を見て何十分たっただろう。
少しずつ気持ちが落ち着いてきたので、
歩いてきた道をとぼとぼ戻り、なんとか家にたどりついた。
玄関のドアを開くと、母は驚いた顔をして、どうしたの? と聞いた。
ぼくは泣いて訴えた。もう学校には行きたくない、と。」
この本には、
竹内敏晴さんも登場しますが、
多聞さんの今回の本、
多聞さんの『ことばが劈かれるとき』だなと感じました。
またゴーギャンの
『われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか』
を連想したのは、
かつて見せてもらった黒い表紙のノート、
あれはあなたがまだ保育園にも通っていない
ごく幼い頃のものでしょうか、
そのノートを思い出したせいかもしれません。
さて最後に、タイトルの『偶然の装丁家』について。
「装丁家」は分かるとして、「偶然」とはなにか。
偶然=たまたま然り。
この偶の字。
白川静さんの『字通』によれば、
「偶然」の偶は、遇に通じるとあります。
しかして遇とは?
『字通』に曰く、
「禺はぎょう(禺+頁)然たる姿のもので、もと神異のものをいう。
そのような神異のものに遭遇することを遇という。」
偶然の偶が遇に通じ、
人間わざを超えた神異にめぐり合うことだと知り、
ひとり合点がいった次第です。
神異に耳をすます多聞さんのこれからを
楽しみにしております。
・物思ふ残り少なの五月かな 野衾
・昏き夜を酔い心地して街の珈琲
たとえばひと月に十冊の本を読むとすると、
一年では百二十冊。
これを十年続けると千二百冊。
さてそこで、
ある人が自分の興味にしたがって
千二百冊読んだとします。
それと全く同じ順番で読む人がいるだろうか、
ふと思いました。
読む順番に個性が現れる
とでもいいましょうか。
こちらが本を選んでいるようで、
実は、
本がこちらを選んでいる、
そんなこともあるのじゃないか。
またその大元は…。
リニューアル成った今回の「春風新聞」で、
佐々木幹郎さんは、
木戸敏郎さんの『若き古代』について
エッセイを書いてくださいました。
導かれるようにして今それを読みながら、
その本が、
現在進行中の仕事
『西田哲学から聖霊神学へ』と、
びんびんと響き合う気がして圧倒されます。
大げさにいえば、
今これを読むことの奇跡に打たれます。
人間は方位のなかに組み込まれ、
時間の概念と空間の概念が重複した「間」に身を置いている、
ことを
木戸さんの本を読んで再確認しました。
わたしたちは、
宙に浮いて生きることはできない。
また、宙に浮いて生かされることはない。
『若き古代』には、
「日本文化再発見試論」のサブタイトルが付いています。
・岐路に立つ此処が思案の五月かな 野衾