珈琲一杯

 

・薫風や売り子彈めり百貨店

保土ヶ谷駅から徒歩三分ほどのところ、
帷子(かたびら)町に、
コーヒー専門店ができました。
帷子珈琲。
若いマスターが豆を仕入れ、
店で焙煎しています。
機械が動いている時は、つい見てしまいます。
昨日も豆を買ってきましたが、
ふらりと入って
飲んで帰ることもたまにあります。
カウンター席だけながら、
行くたびに、
お客さんが増えている気がします。
食べ物は一切出さず、
コーヒーのみ。
一杯三百円。
徹底しています。
わずか十分でも、
自分の時間を取り戻すのに最適です。

・百貨店ミニスカートの五月かな  野衾

横浜高島屋

 

・かはたれを五七五の五月かな

O先生と二時に横浜高島屋で待ち合わせ。
O先生との打ち合わせはここが多い。
正面入口を入ったところは、
外の様子がよく見え、
ここならという場所に手荷物を下ろした。
店内をゆっくり眺めていると、
あることに気がついた。
時間帯のせいもあるのか、
若い人がいないことはないけれど、
圧倒的にお年寄りが多い。
入口近くの椅子も、
店内を行き交う人も。
居心地がいいのかもしれない…。
やがて先生がいらっしゃって、
エスカレーターで三階へ。
喫茶室は満員で外に並べた椅子も満席に近い。
六階へ。
エスカレーターを降りたら、
制服を着た店員さんがいたので、
「資生堂パーラーはどちらですか?」
と声をかけた。
笑顔で「こちらです」
と、
間髪入れずに道案内に立ってくれた。
ちょっと意外な気がした。
その場で方向だけを示されるかと思ったから。
コーナーを曲がった所の喫茶室も外に人が溢れている。
歩きながら、
制服姿の彼女に、
「お仕事中、すみません」と言うと、
「いえ。どういたしまして」
ほどなく資生堂パーラーの飾りが見えた。
「こちらです。待っているお客さんがいますね。
少々お待ちいただくことになるかもしれません」
「ありがとうございました」
「いえ。どういたしまして」
居心地のよさの理由が分かる気がした。

・詩篇あり後頭からの旅路なり  野衾

言葉を意味で

 

・アーアーアー旭日揺れて昇りけり

ウィスキーを水でわるように
言葉を意味でわるわけにはいかない

く~っ!
田村隆一の詩「言葉のない世界」より。
二〇一〇年一〇月から全六巻で刊行された
『田村隆一全集』を
朝、
ぽつりぽつりと。
装幀は間村俊一。
と、
上のような言葉に出合い、
すべての言葉を
意味で割って分かった気になってやしないかと、
反省させられることしばし。
また逆に、
意味で割らずに
言葉を言葉として
そのままとっぷり楽しむように、
ウィスキーを
水で割らずに楽しむことを、
このごろ少うしやっと分かりかけてきて嬉し。
遅し!

・詩篇あり前頭までの旅路なり  野衾

乗り換え危険!

 

・新緑の中を点点人の在り

横浜駅での電車の乗り換えはたいへん危険。
長く改修工事をしていたせいか、
動線が乱れ、
縦横斜めに人が走る走る走る。
危ないことこの上なし!
軽い接触は日常茶飯。
一度など、
若いサラリーマンが
階段を転がるように下りてきたかと思いきや、
改札口に向かって猛ダッシュで突っ込み、
若い女性を突き飛ばした。
女性は宙に浮き、
コンクリートの地面に落下。
起きて不思議はない。
改札を抜けた男も女も、
気違いのように顔を赤くしホームに向かう。
看板の出る日も近いだろう。
「危険ですから駅構内を走らないでください!」

・ここを過ぐ晴れもあるかと五月かな  野衾

拝啓 矢萩多聞様

 

・本を閉じ珈琲の夜の満月

近著『偶然の装丁家』面白く読ませていただきました。
ゲラの段階で一度読み、
本になってざっと読み、
以後ずっと自宅の机上に置いてありましたが、
もう一度読んでみました。
今度は朝、ゆっくり、静かに。
そうしたら、
春先に眩しい陽光が差し、
たろんぺ(秋田弁。つららのこと)が融け始めて
水が温むごとく、
いろんなことがはらりと見えてきた気がし、
嬉しくなりました。
この本には、
多聞さんが不登校になった経緯も書かれていますが、
その時期の
心理の移行と変化がていねいに記述されていて、
インド映画『地上に星が』を思い出しもし、
幾度か目頭が熱くなりました。
たとえば二十ページ、
「ある日、音楽の授業中、先生はぼくをじろじろ見ながら、
「このなかに音痴がいる」と言った。」
その段落から次の段落へかけ、
心の変化をていねいにたどっているのに、
人の心の叙情というよりも
まるで化学変化の移ろいの
正確な記述を見せられるようで、
目が離せず、
何度も繰り返し読み返しました。
ある朝、登校途中
「とてつもなく冷たく暗い気分になった」あなたは、
「吐き気がして、足が進まな」くなり、
河原の柵にもたれて川を見ます。
「ころころ転がり流れる水を見て何十分たっただろう。
少しずつ気持ちが落ち着いてきたので、
歩いてきた道をとぼとぼ戻り、なんとか家にたどりついた。
玄関のドアを開くと、母は驚いた顔をして、どうしたの? と聞いた。
ぼくは泣いて訴えた。もう学校には行きたくない、と。」
この本には、
竹内敏晴さんも登場しますが、
多聞さんの今回の本、
多聞さんの『ことばが劈かれるとき』だなと感じました。
またゴーギャンの
『われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか』
を連想したのは、
かつて見せてもらった黒い表紙のノート、
あれはあなたがまだ保育園にも通っていない
ごく幼い頃のものでしょうか、
そのノートを思い出したせいかもしれません。
さて最後に、タイトルの『偶然の装丁家』について。
「装丁家」は分かるとして、「偶然」とはなにか。
偶然=たまたま然り。
この偶の字。
白川静さんの『字通』によれば、
「偶然」の偶は、遇に通じるとあります。
しかして遇とは?
『字通』に曰く、
「禺はぎょう(禺+頁)然たる姿のもので、もと神異のものをいう。
そのような神異のものに遭遇することを遇という。」
偶然の偶が遇に通じ、
人間わざを超えた神異にめぐり合うことだと知り、
ひとり合点がいった次第です。
神異に耳をすます多聞さんのこれからを
楽しみにしております。

・物思ふ残り少なの五月かな  野衾

読む順番

 

・昏き夜を酔い心地して街の珈琲

たとえばひと月に十冊の本を読むとすると、
一年では百二十冊。
これを十年続けると千二百冊。
さてそこで、
ある人が自分の興味にしたがって
千二百冊読んだとします。
それと全く同じ順番で読む人がいるだろうか、
ふと思いました。
読む順番に個性が現れる
とでもいいましょうか。
こちらが本を選んでいるようで、
実は、
本がこちらを選んでいる、
そんなこともあるのじゃないか。
またその大元は…。
リニューアル成った今回の「春風新聞」で、
佐々木幹郎さんは、
木戸敏郎さんの『若き古代』について
エッセイを書いてくださいました。
導かれるようにして今それを読みながら、
その本が、
現在進行中の仕事
『西田哲学から聖霊神学へ』と、
びんびんと響き合う気がして圧倒されます。
大げさにいえば、
今これを読むことの奇跡に打たれます。
人間は方位のなかに組み込まれ、
時間の概念と空間の概念が重複した「間」に身を置いている、
ことを
木戸さんの本を読んで再確認しました。
わたしたちは、
宙に浮いて生きることはできない。
また、宙に浮いて生かされることはない。
『若き古代』には、
「日本文化再発見試論」のサブタイトルが付いています。

・岐路に立つ此処が思案の五月かな  野衾

大感情

 

・ひとしずく心を物の眺めかな

青森県出身の三上寛という歌手がおりまして、
学生時代にレコードを聴いていました。
彼の歌に「大感情」があります。
「宮古の街へ行けば 遠い古代の海から
幾億 幾万 幾千の 白い帆船が
見える 見える 見える」
ゆっくり、静かに、深く、
歌われます。
レコードはとっくに捨てました。
我が感情が疎ましく、
いま無性に聴いてみたくなりました。

・五月雨を待つ心地して眼(まなこ)閉づ  野衾