りなちゃんホームズ

 

・曇天にひっそり閑の桜かな

幼稚園に入る前から仲良くしている
近所のりなちゃんは、
この四月から中学生になり、
毎日鎌倉へ通っています。
小さいころから本が好きで、
出版社の人間としては
心強くも思い、
行く末を楽しみにしてき、
今もしています。
りなちゃんこのごろは、
アーサー・コナン・ドイルの
『シャーロック・ホームズシリーズ』が大のお気に入り。
正確には、
シャーロック・ホームズが、のようです。
中学の合格祝いに
ママ(パパ?)からプレゼントされた
ホームズの帽子を被ると、
りなちゃんホームズの出来上がり。
とてもよく似合っています。
りなちゃんホームズになら、
隠している秘密もあばいてもらいたい気がします。
秘密をあばくにはルーペが必要。
もうすぐりなちゃんの誕生日。
待っててね!

・春の宵ものをおもひてさびしかり  野衾

今日の呪文

 

・散りて後なほ見上げたる桜かな

五十代も後半に入り、
物忘れがとみに進んでおりまして。
子どものころからよく忘れ物をし
自己嫌悪に陥っては、
もう二度と忘れ物をするものかと一大決心するものの、
数日を経ずして
またなにやら忘れ物をし
クッッソ~!!と思っていたわたしとしては、
そのこと自体はべつに驚きません。
が、
忘れてしまってあやややや
と困ることは度々です。
このごろゴムの伸びたパンツがある。
簡易なお仏壇に置いてある
お線香の箱の横のライターのガスも切れた。
これは退社時に買ってこなければ。
というわけで、
パンツとライターパンツとライターパンツとライターパンツとライター…。
念仏のように唱えていたわけです。
が。
横浜駅で途中下車しあそこの店に寄ろう
と決めていたことを案の定すっかり忘れ、
ふつうに横須賀線に乗り換え保土ヶ谷駅に着いてしまいました。
くやしいです。
くやしいので、
駅近のスーパーマーケットに寄り、
ライターだけは買いました。
下着類が二階にあることを知ってはいるけれど。
ふむ。
一応行ってみました。
縞々のパンツか。
グレーか。
これも縞々か。
こっちはタテヨコか。
ふむ。
しばしパンツと睨めっこ。
妥協するか。
いや。
わたしの美意識が許さない、
ほどのこともないのですが。
結局買わず。
なので今日の呪文は、
パンツパンツパンツパンツパンツ…。

・春の宵階段ふらりふらりかな  野衾

後ろ向きに

 

・春の月体育館の上にあり

きのうに引き続き竹内敏晴さんのことを。
竹内さんは一九二五年生まれ。
わたしの父より六歳上で、
「もう一人の父」として親しくさせていただき、
春風社を起こしてからも、
事あるごとにお力添えをいただきました。
その竹内さんがよく語っていたことに、
「後ろ向きに歴史の中に入る」があります。
たとえば弊社刊行の『待つしかない、か。』(木田元さんとの対談)に、
こういうことばがでてきます。
「二十歳で戦争が終わったでしょう。
デモクラシーとかヒューマニズムといった占領国のイデオロギーが、
バーッと入ってきた。……
時代がどんどんうごいていくなかで、
私は後ろ向きに歴史の中に入っていくという感じがした。
前を向いて、時代がこううごくと見極めて、
自分はこの道を選んで歩こうとはならない。いつも後ろ向きで、
まわりのものに流されるしかない。
それじゃあ一体どうしたら前を向けるのか。
主体性、自分の実感に基づく主体力みたいなものは
一体どうやったら持てるんだろうか。
こういう思いがとても強かった」
後ろ向きに歴史の中に入っていく、
読めば、また直接うかがったこともありましたから、
なるほどそうか、ふんふん、
と、その時は納得したつもりでした。
ただ、竹内さんはすぐれて感覚の人でもありましたから、
納得したつもりになっても、
つもりはあくまでつもりで、
ほんとうの理解に至っているかどうかは分からない。
油断ができません。
後ろ向きに歴史の中に入っていく、
どういうこと、
どういう事態なのだろうとずっと思ってきました。
前置きが長くなりました。
二〇一一年三月十一日、東日本大震災が起き、
その後、多くの本が刊行されるなか、
畠山直哉さんの写真集『気仙川』の写真と文章を、
とくに最後の「あとがきにかえて」を読み、
ハッとさせられました。
また少し長くなりますが、引用いたします。
「出来事としての東日本大震災の後では、
今この世にいる人間すべてが
「生存者(サヴァイヴァー)」であるように僕には見える。
生存者同士の間では「前を向こう」と励まし合い、
お互いに手を差しのべながら歩く、
そんな温かさが何よりも大事であることは言うまでもないけれど、
僕にはこの「前を向く」ことがなかなか難しい。
東京にいる時はほとんど暗室で、
ネガを探してはプリントを焼くという時間を過ごしている僕は、
自分の過去とつきあう時間が圧倒的に多く、
人といっしょに歩く時でも、
言ってみれば僕だけが「後ろを向いたまま」後ずさりするように
歩いているような気になる。
背後からやってくる未来に、背中の神経を集中させながらも、
僕は来し方が遠く小さくなってゆく光景から目を話すことができない。
誰かに「前を向いた方がいい」と言われても、
その度に僕はたぶん
「もう少しだけこのまま後ろ向きに歩かせて下さい」とことわり続けるだろう」
「後ろ向きに」という竹内さんのことばが、
はじめて感覚的に分かった気がした。
後ろ向きということは、
背後から次つぎにやってくる未来、言葉たちに
信が置けないということでもあろう。
これから、前を向くのになにが要るのか、
自分で感じわけ、考えながら、
竹内さんのことばを再度吟味することも大事かと思われます。
『待つしかない、か。』は長く品切れ状態でしたが、
弊社十五周年にあたる今年、
装いも新たに『新版 待つしかない、か。』
として刊行する予定です。

・花びらが歩に沿ひ來る桜かな  野衾

理解すること

 

・春の月彼のひとともに眺めやる

竹内敏晴さんが亡くなられて五年が経ちましたが、
親しくさせていただいた時間の長さもさることながら、
物事の考え方の根本に、
竹内さんとの出会いとことばによって
教えられたというよりも、
触発され、
竹内さんがすでに
ぎりぎり正確無比と感じられることばによって
ことばにしており、
だもんですから、
今も揺るがず何度でも立ち返る
基本概念のようなものがあります。
「理解」あるいは「理解する」は大事なその一つ。
引用としては長くなりますが、
ここ以上に「理解」あるいは「理解する」を
射止めたことばをほかに知りません。
「私のからだがただ主体であるだけでなく、
私にとっても相手にとっても外部=ものとして出現するとき、
相手のからだは私にとって外部=ものであると共に、
一つの主体としてそこに現象する。
そんなふうに言えそうである。
私のからだと相手のからだのふれあいは、
まさに「もの」である私のからだにおいて成り立つのだ。
そして働きかけが相手のからだを動かすとき自分の動きが相手のからだにうつる。
そして相手のからだの動きがまた私にうつってくるとき
(自他は同一の系に属する二つの項である――メルロ・ポンティ)、
私と相手とのからだが、同じ歪み、緊張を持ち、
それをとりのぞこうと闘っているからだの姿勢を了解しあったとき、
理解ということが始まる――こんなふうに言えそうに思うのだ。
もっとやさしく言うと、
今までえたいのしれぬ、いわば敵だったものが、
さわって、しらべてみて、
ははあこういうものかとわかるようなものになってくるということである。
たぶんサルだのイヌだのも、
はじめて出会う「もの」に向かっては、同じ過程をふんで相手を判断し、
その結果、逃げたり、寄ってきたりするのだろう。
昔の武芸者だったら、「わかる」とたんに、
どっちかが斬られているに違いない。」(竹内敏晴『ことばが劈かれるとき』)
好きな時代小説『大菩薩峠』を読んだときもこのことばを思い出し、
また、
少々というか
かなり相当(同じか)気恥ずかしい
「愛」ということばを、
わたしは竹内さんのこの文脈でとらえ考えることがあります。
さらに次の箇所にも目を奪われます。
メダルト・ボスの『心身医学入門』中の一節、
「神経症の症状を起こさせているのは、
精神的エネルギーのうちの性的な要素の鬱滞のみではないのです。
おそらくこれこそ現代の特徴なのでしょうが、
いわゆる攻撃衝動の鬱滞が同様に著明に一般的に拡まっています」を
竹内さんは引用した後、
つづけて、
「おそらく彼女(竹内さんのレッスンに参加した女性)の場合、
抑圧された攻撃的エネルギーが体内に逆流し、
開幕間近の緊張で極度に達し、背筋を緊張させ呼吸器を圧迫したのだろう」
竹内さんの血の通った一連の思考とことばは、
ひとを理解するということがどういう事態なのかを考え、
行動として理解することに身を置こうと決心し身構えるとき、
そのことが実際にまた奇跡的に起き、
目の前に現象し、
新たな地平に破り出る根源を指し示す力として、
何度でもたちかえるべき思考=ことばだと思います。

・蚊と見れば遥か音なく国際便  野衾

たそがれ

 

・おぼろ月歯が欠けるごと壊れゆく

ほんをよんだ ゆうこく
こえをかけられる
つかれておるの?
おる? だれ きみ?
くうき
くうき?
そうよばれている…
くうきなら がっこうでならったよ
…………

きみは こいね
…………
こくなるとそうやって いすにすわったりするの?
…………
いろがあったらいいのに
とおもったら きいろくなった
くたびれはてた ふうじんらいじん

くうきは なんだかさみしそう
そうみえたのは ぼくのほうで
でもなさそう…
ただそこに すわっている
つくえにひじをついたりして
じてんのことを かんがえているのかな
じぶんがじぶんでいられる あさまでの

・春暖のせせらぎ光り浮かべ行く  野衾

バルザック的

 

・携帯のメール打ち止む春の月

東京堂書店の方との打ち合わせの後、
同行した四人で近くの魚串焼きの店に入り、
一杯、二杯。
新入社員のY本くんが頬を紅潮させ、
眼をキラキラさせている。
なんの話からそうなったのだったか、
Y本くん、バルザックが面白い、好きだという。
そうか。好きか。
たとえば?
ゴリオ爺さん。
ああ。あれは面白い。
話としても面白いけど、
人物再登場の「人間喜劇」小説群のなかの
個性たっぷりな人物が
いわば顔見せのように登場してくる。
ラスティニャック、ビアンション、ヴォートラン、ニュシンゲン…。
く~っ。たまらん!
いわば結節点にあるような小説で。
あ、そう!
バルザック好きなの。
飲みねえ喰いねえ。
鮨はねえけど串喰いねえ。
というわけで、
大いに盛り上がりました。
かつて師匠安原顯さんの創作学校に通っていた頃、
世界文学で好きな作家三人挙げよといわれ、
バルザック、ゴーゴリ、魯迅を挙げた。
今ならゴーゴリの替わりに
ドストエフスキーを挙げるかもしれないが、
やっぱりゴーゴリのような気もしちょっと迷う。
が、
バルザックに変更はない!
酒はすすみ。
Y本くんに、
バルザック全集つくらない、と提案。
言下に「つくりたいです!」
「二十年。いや、三十年かかるかもしれないよ」
「はい」Y本くんの眼のキラキラは収まらない。
東京創元社から全集が出ているけれど、
完全なものでなく、
藤原書店、水声社から選集も出ているが、
名のとおり選集。
全九十篇の小説群「人間喜劇」を網羅する日本語訳は未だない。
どう? やる?
「やりたいです!」
編集者になってバルザック全集の日本語訳に三十年を費やす。
それは、バルザックの人間観にもかなっている。
でも。
Y本くんは三十年経っても
まだ今の私ぐらいの歳。
私はといえば、
生きているのか死んでいるのか。
生きていても耄碌しているような気もする。
しかし、
それもまたバルザック的といえないこともない。
やるか。やらぬか。
それが問題。

・春の月黙して空を照らしけり  野衾

驚異のインド手づくり絵本

 

・猫ならず桜くるひの季節なり

保土ヶ谷にある
インド雑貨のお店ラヤ・サクラヤで一目ぼれし、
オーナーのあかねさんに注文していた
タラブックスの絵本が昨日入手、
手でさすって眺めています。
すべて手作り。
これぞ驚異の絵本!
ページを開くと、
インクのいい匂いがしてきます。
シルク印刷。
そばに置いておくだけで、
手で触ったり
匂いを嗅ぐだけで、
気持ちが安らぎ落ち着きます。

・山笑ふ我は黙して歩きけり  野衾