隙間で息するように

 

・室温の二十度となり皮を脱ぐ

野原に片耳といえば、
『ブルーベルベット』
一九八六年に制作されたアメリカ映画。
ずいぶん昔に観て、
すっかり忘れてしまいました。
監督・脚本はデイヴィッド・リンチ。
先だって、
片耳でなく
少し汚れの付いた
片方の小さなスニーカーが
道端に落ちていたのを見たせいか、
はたまた。
ふつうの顔をし仕事している自分が、
とりあえず健康で、
なにげないフリ、
をしているわけではないけれど、
机に向かう姿が
どうも変。
たとえば。
上からひょいと眺める具合に
なり、
アレアレ? なときがあったりで、
ああこれは、
『ペーパーボーイ 真夏の引力』を思い出したせい。
空気が薄いせい。
関係ないか。
さすけねか。
ともかく。
日常を
ポスターの顔のデカい首相のように、
口角をちょいと上げ、
送っていることが
理由などなく、
ただなんとなく。
息苦しくなることはあります。
だれに向かってでもなく、
そんなんじゃないし
こんなんではないと。
音楽でも
映画でも
いまは
何でも安く手に入る時代ですから、
『イレイザーヘッド』をはじめ、
デイヴィッド・リンチ監督の作品をboxで購入。
中古ならさらに安!
隙間で息するように見るつもり。

きょうはこれから福島出張です。
出社がおそらく明日の午後になりますから、
明日のよもやまはお休みします。

・春なれば風の起こりて鼻痒し  野衾

少女は自転車にのって

 

・映画観にリュック背負ってさくららら

原題はWadjda(ワジダ)
2012年のサウジアラビア=ドイツ合作映画。
物語は一見、いたってシンプル。
十歳のおてんばな少女ワジダは自転車が欲しい。
自転車にのって
男の子の友だちアブドゥラと
競争がしたい。
映画の冒頭、
自分の自転車を持ち、
自転車にのってワジダをからかうアブドゥラがいう。
「男に勝てるわけがないだろう!」
ワジダが叫ぶ。
「私も自転車を買うわ!」
少女ワジダがいろいろ知恵をめぐらし
小金を貯めていく過程で、
学校、家族、結婚、男社会等々、
サウジアラビアの内情が、
外国人であるわたしたちにも少しずつ見えてくる。
小金を貯めても、
自転車を買うほどにはなかなか至らない。
と、
あるとき、
ワジダが通う学校で、
コーランの暗唱大会が開かれることになり、
優勝賞金はいつもより200リアル高い1000リアル。
そのおカネがあれば、
自転車が買える!
ああ、もう、
その物語の進行がわかっただけで、
目がうるうるしてくる。
二十一世紀になっても、
サウジの国はこうなのか、
昔の話じゃないの?
と思われることが多々あり、
不勉強をなじられても仕方ないのですが、
その意味でも勉強になりました。
コーランの暗唱大会でワジダは優勝します。
が、
校長から賞金の使い道を尋ねられ、
自転車を買うとワジダは正直に答えます。
女の子が自転車を乗り回すなんてとんでもないと
校長に反対され、
賞金を手にできなくなってしまう。
落ち込み
とぼとぼ家路につくワジダに向かい、
「いつか結婚しよう!」とアブドゥラ。
「………」
無言のワジダの表情にハッとさせられます。
オーディションで選ばれたワジダ役のワアド・ムハンマド、
アブドゥラ役のアブドゥルラフマン・アル=ゴハニ
ふたりの表情は、
深く悲しく優しく澄んで、
ことばにならないだろう気持ちが
見ているこちらまで伝わってくるようなのだ。
監督は、
サウジアラビア初の女性監督ハイファ・アル=マンスール。
これが彼女のデビュー作とか。
いい映画でした。

・館出でて暖簾くぐりし蕎麦屋かな  野衾

ありのまま

 

・やばちくて一雨ごとのぬぐさかな

神田神保町にある東京堂書店で催された
四方田犬彦(よもた・いぬひこ)×田代一倫(たしろ・かずとも)
トークショーへ。
開始まで時間がありましたので、
入り口に置かれていた田代さんの写真集をパラパラと。
『はまゆりの頃に 三陸、福島2011~2013年』
と題されたぶ厚い写真集は
全488ページ、
掲載写真453点、
撮影人数延べ1200人とのこと。
量は大したものですが、
全体を通して凡庸な
“シロウトが撮った写真の束”
としかわたしには見えませんでした。
被写体と向き合ううちに、
言葉を失い
口ごもり、
沈黙を強いられたことがあっただろうか。
むしろ饒舌な写真集であると。
田代さんはトークの中で、
一期一会という言葉を何度か口にされましたが、
あの写真集が一期一会といえるか、
疑問です。
「カメラは
ありのままを写しても
ありのままは写らない
ありのままの中から創るのだ
創らなければありのままは写らない
ありのままは、
カメラが生きて、
ありのままにならなければならない」
一昨年亡くなられた映画監督の
新藤兼人さんが生前、
写真集『九十九里浜』に寄せてくださった
詩にある言葉です。

・車中暖房汗掻き掻き読書かな  野衾

それにして、も。

 

・ここそこに淡き色して桜かな

特殊漫画家根本敬の
エッセイを読んでいると、
「それにして、も。」
という語がたまに出てきます。
『因果鉄道の旅』のなかに、
この語をこういう根拠で、
だったか、
こういうニュアンスを帯びるから
だったか、
ともかく、
そのつかい方について
根本さんなりの意図が書かれていた気がしますが、
忘れてしまいました。
てか、
そのときは、
へ~、ちょっと変ったつかい方、
ぐらにしか思わなかった。
ところがその後、
『因果鉄道の旅』につづいて
『電氣菩薩』を読むに至り、
この「それにして、も。」

なんとも味わい深く思えてきました。
好きだった、
いや今も好きな中野好夫の
エッセイ、
あるいは評伝などに登場する
「閑話休題」
のつかい方にも匹敵し、
面白くかつ味わい深い。
読点と句点がすこし滑稽で可愛らしい。
書き手がノッて書いてきたのを、
そこでみずから不意にブレーキをかけ、
とでもいったらいいか、
頭を冷やし、
ていうふうなニュアンスも出、
リズムに変化が現れテンポが変る気がします。
それにして、も。
つかい方を根本さんに習い、
倣い、
真似してつかってみたくなります。

・るてえるやほっほふふふふさくららら  野衾

唄の力

 

・竹山や深く悲しくひびきけり

昨日、
渋谷にある「サラヴァ東京」で行われた
二代目高橋竹山定期演奏会第一回リサイタル
「東北を聴く―民謡の原点を訪ねて」
に社員共々行ってまいりました。
東日本大震災の後、
竹山さんと詩人の佐々木幹郎さんは幾度も東北を訪れ、
各地でチャリティ・ライブを行い、
民謡の調査をしてこられましたが、
このたび、それが
『東北を聴く――民謡の原点を訪ねて』(岩波新書)
という本になり、
その出版記念を兼ねた催しでした。
東北に多くの民謡があるとはいうものの、
民謡という言葉はわりと新しく、
古くから日本人は、
口偏に貝と書いて唄(うた)
といってきました…。
佐々木さんのゆったり、
ゆっくりした語りが心地よく、
合間合間で竹山さんが歌をうたいます。
三味線を弾きます。
アンコールで歌ったのは宮城県の民謡「お立ち酒」
婚礼の席で歌われた。
嫁に行く娘に、
ふたたび実家に戻ってくるなよの意味から、
別れを惜しむ嫁方の人びとが歌いかけ、
酒を酌み交わし、
飲んだ後は酒を入れた茶碗を割ったとされる。
目を閉じて
「お立ち酒」を聴いていました。
三味の伴奏はなく、
竹山さんの声だけがひびき、
渋谷の地下の穴倉のような空間に、
しとしとと、
またしんしんとしみてきます。
やさしく、ふかく。悲しく。
ひとが生れて死ぬまでの
出会いと別れの諸相が浮かび、
色立ち、はじけ、
通い合う情愛の
深深とした味わいが切々と
歌われているようで、
こころの底の底にある悲しさが共鳴し、
鳴っているようでもあります。
ひとりでは生きられないけれど、
ひとがひとにできることもまた多くなく、
ひとり歯がみして立ち、
すすむしかないと、
静かに後押しされるようでもありました。
シンとなり。
でも、その悲しみは、
冷たいものではけしてなく、
どこか懐かしく、
ぬるく溶けてゆくようでもあり、
こうした感じも民謡の、
唄のもつ大きな力かとも思いました。

・耳澄まし我も悲しくぬぐだまる  野衾

日販ネット事業部

 

・春なれどごびらっふ淋漓なみかんた

契約更新の時期に当たり、
日販ネット事業部の方三名来社。
弊社が
インターネットを通じ
売り上げを確実に伸ばしていることを再確認。
ところで、
前回も前前回も
感じたことですが、
お三方とも
大手取次とは思えぬ(ゴメン!)
腰の低さ、肩の力の抜け具合、丁寧な物言いが気持ちよく、
いろんな意味で、
とても勉強になります。
またフランクに何でも話ができ、
有難いです。
ああ、
いまこんなふうに業界が動いているのだと、
セミナーなんかに出向くよりずっと、
ひしひし感が身に迫ってきます。
きめの細かい対応を常に考え
お客様の注文に対し即対応できるよう、
販売のチャンスロスを軽減するための努力を惜しまない、
など、
むしろこちらからお願いしなければならない案件を、
課長さんのほうから
さらりと提案していただけたことに感動。
心強くも感じ、
こういう方たちと
いっしょに仕事できることの
よろこびがふつふつと湧いてきました。
頑張るバネをいただいた気にもなりました。

・三年目千年後のけふの日を  野衾

本は増える

 

・伊勢佐木町眼鏡屋眼鏡笑ひをり

以前、山村修『遅読のすすめ』を読み、
おもしろかったので、
今度は文庫になった『増補 遅読のすすめ』を。
やっぱりおもしろい。
が、
三橋敏雄の有名な「かもめ来よ~」の句の
“発見”は、
『遅読のすすめ』の山村でなく、
北村薫『詩歌の待ち伏せ』に紹介されていた
須永朝彦の『扇さばき』
にでてくるエピソードであった、
というのが正しい。
わたしの記憶違いでした。
山村は、
「かもめ来よ~」の句の読みを紹介しつつ、
こんなふうに言っている。
「むろん句をつくった三橋敏雄が、
須永朝彦の考えた通りに発想したのかどうか確証はない。
しかし、これはそれこそ気づくか気づかぬかであって、
いったん気づいてしまったら、
ほかの発想はもはや考えられなくなる。」
三橋敏雄がこの句をつくったのは十代のころ。
そのことをふまえ、
山村はさらに想像をたくましくする。
「少年の日の三橋敏雄が、開いた本を手にしながら句をつくる。
須永朝彦が、その句を読みほぐしながら、やはり手もとに開かれた本を、
あらためて水平にして眺めてみる。
その読みを知った北村薫が、手にした本でたしかめてみる。
北村薫の本に教えられた私が、同じことをしてみる。
一つの発見が、こうしてあたかも本から本へ、
白い翼をひろげたかもめが渡るように、私のところまで伝わってくる。」
それを真似し、
わたしも『増補 遅読のすすめ』の
いま読んでいるまさにこのところを開いたまま
目の高さまで持ってくる。
かもめは白い翼をひろげて、
わたしのところまでやってくる。
かもめはやってきて、
本を読むことのよろこびが静かに、
ふつふつと湧いてくるけれど、
それといっしょに、
本を読みたい欲望はさらに湧き、
北村薫『詩歌の待ち伏せ』、
須永朝彦『扇さばき』を注文せずにいられない。
本はこうして増えるのだ。

・幸福は其の予感とぞ合点せり  野衾