本を捨てる

 

・降るといふ雪降らずして帰宅かな

数年前、
相当の数の本を古書店に売ったとき、
紙ゴミとして
捨てたものもかなりありました。
そのなかに、
大月書店からでていた
マルクスの『資本論』全五巻もありました。
大学時代、
自主ゼミナールをつくり、
そこでも読んでいたもので、
赤と青の鉛筆で
線がいっぱい引いてあり、
古書店にだすことをはばかられました。
『資本論』を捨てたとき、
こころの糸がぷつんと切れたようで、
それが一つの基準となり、
あれもこれも
捨てる側にまわった。
『資本論』を通読するのにだいぶ苦労した、
その時間まで捨てた気がして、
勢いづいたのでした。
あれはあれでよかったと思いますが、
そんなに気合いを入れてまで
捨てることもないなと、
このごろは考えを改め、
読んだ本を宅急便で
せっせと秋田の実家へ送っています。
送った本のうち、
再読三読にまわる本が
これからの人生で
どれぐらいあるかといえば、
心許ないわけですが、
そこは、
あまり合理的に考えなくていいか
とも思っています。
本はいろいろな意味で、
合理では片付けられない代表のようなもの、
かもしれません。
これも大学時代の話ですが、
ある先輩が
ある席で、
聖書を焼いたらどうなる、
と言ったことがありました。
問いはおぼえていますが、
先輩が
そのあとどう言ったかまでは憶えていない。
聖書を焼いたら…、
たぶん、
いやきっと、
灰になるだけで
ほかに何も起こらないだろう。
罰が当たることも、
おそらくない。
罰が当たったら、
こわい!
しかし、
本を焼く者は
やがて人間も焼くようになる、
というハイネの言葉もあります。
本はまた、
たしかに時の
玉手箱のようなものですから、
焼くに焼けない、
なかなか捨てるに捨てられない。
やはり、
実家に送り届けるのが無難なようです。

・鰭酒や注ぎ酒までの時を飲む  野衾