いのちが通る

 

・ぱふぱふと煙り吐きそな海月かな

新井奥邃著作集を読んでいると、
ハッと我が身を
振り返らざるを得ない言葉に
ときどき出くわします。
「昵懇」と「親近」もその一つ。
男女を問わず、
親しきもの同士が
別れなければならない理由の多くは、
お互いの関係が
親近でなく昵懇だからであると。
親近は
「愛敬して遠立」すべき関係として、
昵懇は「狎れ親しむ」関係として
イメージされているようです。
これはあくまでもわたしの拙い理解。
哲学者の森信三はかつて、
奥邃の言葉は
(ある一つの言葉について言っているのですが)
意味を理解しようとしても不可、
感じるでもダメ、
なぜなら、
奥邃の言葉によって
「いのちが通る」からだと語っています。
奥邃の言葉は生きていて、
何度試みても
暗唱することができないと。
わたしも暗唱できません。
物忘れがひどくなったからできない
のでなく、
漢文調だからできない
のでなく、
生きている言葉だから暗唱できないのです。
「昵懇」と「親近」についても、
意味の理解とは別に、
その箇所を読んだときの
静かな興奮と緊張は
筆舌に尽くし難く、
目を閉じ
じっとしているしかありません。

・イルカより姐さん見てゐるイルカショー  野衾