こころの猿

 

・箒星のごとしぶとき残暑かな

こころといってもいいのか、
人間には自意識、自我というものがありまして、
これがなかなか厄介至極。
自分の意識、自分の我なのに、
馬琴先生が猿馬と書いて
「こころ」と読ませているごとく、
一瞬も落ち着きなく
所狭しと暴れまわります。
どうやって飼いならしたらいいのか、
飼いならすことなど
そもそも不可能なことなのか、
わかりません。
怒り、悲しみ、寂しさ、不安、恐怖等々から
縛られ、
波立ち、
毛羽立っているこころを感じます。
新井奥邃の高弟・渡辺英一という人は、
「どんな不愉快な事件にぶつかっても、
何が不足でも、
病気をしても、
もの柔らかに、おだやかに、
静かで、
人気(ひとけ)のない所では、
いつもよく頭を垂れている。
いつも祈りのような状態で、
ひるも夜も、
学と修、修と学と、
沈黙とだけがつづく」人だったといわれています。
そういう人にこそあこがれますが、
すぐにこころの猿が
キキキキッと牙を剥きます。

・残尿のごとしつこき残暑かな  野衾

秋バージョン

 

・秋バージョンでつぷり丸丸尻もあり

橋本照嵩さんの
「春風フォトストーリー」が秋バージョンに変りました。
このホームページのトップ画面上の写真です。
五十数枚ある写真のうちの
どの写真が現れるか、
ホームページを開くたび楽しみです。
三か月に一回更新していますが、
季節のめぐりは速く、
一日としてじっとしていてくれません。
開くたびにめぐる季節、
目を覚ますたび季節は変ります。
源氏物語の時代から、
いやもっと古くから、
季節に深く想いをいたすことで
日本人は生きてきたし、
いのちは季節によって育まれてきました。
虫も鳥も魚も花も木も
草も山も川も海もみな友だち。
いつもそのことを覚えていたいと思います。

・含みつつ闇を劈く秋の雷  野衾

新井奥邃著作集

 

・秋なれば初版句集の色も濃し

ムージルの『特性のない男』が終りましたので、
つぎは『新井奥邃著作集』
これは再読でなく三度目。
「再読無益なり」と語った奥邃先生は、
天上で呆れているかも知れません。
正確に言えば、
初めては、
著作集でなく『奥邃廣録』でした。
前の出版社に勤めて間もないころですから、
今から二十数年前。
自分で企画した『奥邃廣録』の復刻版を
一冊一冊むさぼるように読みました。
難しいのに、
なんだか体が震えるようで。
難しさが気にならない、
とでも言ったらいいでしょうか。
不思議な貴重な有難い時間。
ほかのどんな本ともちがってい、
面白くて、
腑に落ちたところを
隠れるようにして手帳に書き留め、
読み耽っているうちに
赤羽の駅を乗り過ごしたり…。
春風社を起こしてからは『新井奥邃著作集』
編集しながら何度も、
読むというよりは、
眼で触れ、さわり、撫で、起こし。
今度はふつうに読みます。
視力がだんだん衰えてきましたから、
本文の字の大きさを
12ポイントにしておいてよかった!
後に自分が読むことを考えて
そうしたわけではありませんが、
けっきょく自分のためにもなりました。
さてどんな感想が湧いてくるか、
わくわくします。

・映画はね映画館で観るぞ好き  野衾

旧暦のある暮らし

 

・草の色吸ふて蟷螂斧を挙ぐ

『日本の七十二候を楽しむ 旧暦のある暮らし』(東邦出版)
という静かで楽しげな本を買いました。
文:白井明大(しらい あけひろ)さん。
絵:有賀一広(あるが かずひろ)さん。
四季があることはだれでも知っています。
が、
一つの季が六等分され、
掛ける四でイコール二十四。
二十四節気があることは、
四季ほどには知られていません。
わたしの場合、
俳句に興味を持ち、
自作をひねるようになって知りました。
さらに七十二候。
この本で初めて知りました。
一年は三六五日。
うるう年なら三百六十六日。
三六五を七十二で割ると、5.06944。
ほぼ五日ごとに新しい季節が廻ってくることになります。
ワクワクします。
日本人は、
皆、そうして暮らしていたのですね。
この本の「あとがき」に、
こんなふうに書かれてありました。
「……原子力発電所の事故は、あまりにも愚かしく、
これから生まれてくる未来の人たちに
取り返しのつかないほどの負の遺産を残す過ちとなりました。
それでも、私たちはここからまた生きていかねばなりません。
そう心するとき、
昔ながらの暮らしに教わることがたくさんあります。」
静かで楽しげな本にこめられた深い怒りを感じます。
悲しみといっていいかもしれません。
自然に感謝し
喜びを味わい
うまずたゆまず
暮らすことがいかに大事か教えられます。

・夏バテか医院待ち合い混雑す  野衾

鏡花本の装丁

 

・映画館インド日和を楽しめり

鏑木清方(かぶらき きよかた)の文章に、
表題のものがあります。
岩波書店版「鏡花全集月報第二号」に収録されており、
目にしているはずなのに、
うっかりしていました。
なぜそのことを取り立てて言揚げするかといえば、
岩波の「鏡花全集」の各巻表紙にほどこされた
片仮名の「ヨ」を
九十度寝かせたような文様が何を表わしているのか、
とんと見当がつかないままでいたからです。
鏡花ファンにとってはあたりまえすぎて、
笑われるかもわかりませんが、
谷沢永一・渡辺一考 編『鏡花論集成』に入っている文章を読み、
ハッと驚き、
初出が「鏡花全集月報第二号」であったことも教えられました。
粗忽もいいところ。
下の写真がそれですが、
それについての鏑木清方の文章から引きます。
「…裏おもてのまんなかに据ゑた紫の香の図は、泉さんの紋どころ、
もちろん祖先伝来のものではなく、
紅葉さんに因んでのもみぢの賀、
紅葉山人著「浮木丸」の表紙に黒地へあさぎで、この紋が出てゐる。
泉家では、黒の羽織はもとより、
格子戸をあけてはいつた一坪の土間に、
明治好みの摺ガラス入の四角な燈籠にもこの印がかいてある。
表紙の香の図の寸法はそれをうつした。」
香の図とは?
「①源氏香の組み合わせを示す図」(『大辞林』)
源氏香とは?
「組み香の一。後水尾天皇の時代に考案されたものという。
五種類の香をそれぞれ五包ずつ計二五包つくり、
任意に五包をとりだして香元がたき、
他の人々がその異同をききわけ、
五本の縦線の組み合わせを横線で結んでできる五二の図で示し当てるもの」
とあって、
『大辞林』には語釈につづけ
五二の香の図が示されています。
(グーグルの画像検索で調べると、大きく出てきます)
まさに、胸のつかえが取れた気分。
泉鏡花にとって
尾崎紅葉は神のような絶対の存在。
いろいろなエピソードが残されているようですが、
それはひとまず措くとして、
源氏物語に感銘を受け『多情多恨』を書いた尾崎紅葉の
その「紅葉」を意匠化した香の図を
鏑木清方は「鏡花全集」の表紙にもってきたわけなのでした。
こころにくい配慮といえます。
源氏物語には「紅葉賀」の帖があります。

・セプテンバー雨が恋しい裕美かな  野衾

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