千成鮨

 

・かなかなのけふを祭りし名残かな

シュウちゃんとショウちゃんなのである。
JR保土ヶ谷駅そばに移転し十一年目を迎えた千成鮨のお二人。
「二人はそろってすし店の息子で、
高校の同級生で、親友で、
恩人で、同志で、店主と店長で、すし職人だ。
あだ名はシュウちゃんとショウちゃん。」……
神奈川新聞の好評連載「自転車記者が行く」
で紹介されました。
冒頭の箇所を引用しましたが、
自転車記者こと佐藤将人記者の文章が
めっぽうリズミカルで小気味よく、
名調子名文にちがいありません。
「声に出して読みたい近ごろの日本語」に
勝手に選ばせてもらいます。
みなさん、ぜひ声に出して読んでみてください。
コチラの記事です。
文章もお鮨もまず口と舌が喜ばなければなりません。
口と舌が喜んで
それから体と心が元気になります、
ってか。く~っ。
写真のとおり、
若くはつらつとした気が満ちています。
保土ヶ谷にお越しの節は、
ぜひ立ち寄ってみてはいかが。
雨が降っていてもだいじょうぶ。
傘を差さなくても雨に濡れずに店に入れます。
だって、
駅とつながっているんだもん。

・かなかなや寺の叢(くさむら)色を増す  野衾

横浜市大新叢書

 

・干満の呼吸しらしら夏の海

横浜市の大新(!?)な叢書…
ではありません。
漢字のつらなりは区切るところが難しい。
正式には、
横浜市立大学新叢書。
横浜市にある大学が、
横浜市民に知の体系をひろく紹介する教養書をもふくむ
叢書を刊行することになりましたが、
その編集と出版を
横浜市にある出版社「春風社」が担当することになりました。
その第一弾として先月、
二冊同時に刊行されました。
松井道昭著『普仏戦争』3150円(税込)
白井義昭著『読んで愉しむイギリス文学史入門』1575円(税込)
ほかに現在六冊を鋭意準備中です。
大学は本来、
学びたい人にとっての広場であるべきで、
教育制度で定められた一定期間だけ身を置く
腰掛け的な場所ではないはず。
学びは一生つづきます。
横浜市立大学新叢書は、
大学が本来有しているはずの機能をまさに体現する
画期的な叢書です。
ひろく、ながく、ふかく読み継がれる叢書になっていくよう、
弊社の総力を結集して事に当たりたいと思います。
今月十八日(日)の神奈川新聞に、
この叢書についての記事が掲載されました。
コチラです。
つぎつぎ刊行される叢書から、
興味のある本を手にとってみてはいかがでしょう?

・アブラゼミ食ひ破られて下にあり  野衾

ふるさとのサイズ

 

・城ヶ島蟹が手を擦る足を擦る

十三日から十七日まで帰省していました。
正月なら箱根駅伝。
この時期なら甲子園。
秋田商業、初戦敗退。
はぁ、なさげね。
両親ともにスポーツ好き(観るのが)
なので、
つられていっしょに観ることに。
観ているうちに
どうしても感情移入し、
どっちかのチームを応援しています。
どっちか、
というのは正確でなく、
距離的に少しでも秋田に近いほうのチームを、
いつしか応援している。
単純といえば単純。
馬鹿みたいといえば馬鹿みたい。
でも正直なところ、
そうなので、
仕方ありません。
高校野球が始まるずっと前、
朝ごはんにもまだ間があるころ、
朝靄に煙る山々を見ながら散歩に出かけます。
草のいい匂いに体を包まれ、
鶏の声まで素敵に聞こえます。
バリ島でもポカラでもサンチーでも耳にした。
アジアは鶏が多い。
ここは秋田県井川町。
井内への坂を下り、
幼なじみの昌子さん宅の前をグイッと左へ折れ
農道を川へ向かって歩きます。
「おはようございますー」
「おはようございますー。朝は涼しくてえぇしなぁ」
「んだしなぁ。どーもー」
たしか去年もここであいさつした。
おばさん畑仕事に余念がない。
サギが白く艶かしい腹を見せ
ワッシワッシと飛んで行きます。
こちらでトンビがピーヒョロロ。
へ~、
ゲンジボタルの里でもあるわけだ。
看板の説明をひやかし
橋を渡って左折し川沿いをてくてくてく。
井川のせせらぎを聴きながら木の生い茂った坊塚へ。
同級生、帰ってきてるかな。
さらに歩いて大麦。
ここにも幼なじみが多くいた。
カブトムシ、クワガタ、野球大会、カキ氷、栗の花、
泳げない川泳ぎ、藪、蚊、女のハダカ、河童の川流れ。
夢の中とちがってすっかり整理されていた。
ぼんやり歩いているうちに
夢も朝もすっかり明けていました。

・濡れ濡れて塩水乳房洗ひけり  野衾

こころはどこに

 

・現れてメタル舟虫サッと消ゆ

二十五年ほど前、
ネパールを旅したときに、
カトマンズで「見ざる、聞かざる、言わざる」の
木彫りの三猿像を買いました。
店で買ったわけではなく、
頭陀袋を肩から腰に斜めにかけた
売人から買ったものです。
日光東照宮のものが有名な三猿像。
また、
見ザル聞かザル言わザル
というぐらいですから、
とうぜん日本語の猿(さる)との語呂合わせ
からできたものと勝手に考え、
日本発祥だろうと思い込んでいたら、
どうもそうではないらしい。
古代エジプトにもあるということですので、
やはり浅知恵は禁物。
英語では、
Three wise monkeysというそうです。
wise「賢い」の反対は「愚か」。
どこが発祥かはともかく、
おこないを慎み「こころ」を落ち着かせ、
行動の規範としたものであることはまず間違いないでしょう。
では、なぜ猿なのか。
曲亭馬琴の『南総里見八犬伝』を読んでいたとき、
猿馬と書いて「こころ」
とルビが振られている箇所がありました。
ハッとしました。
猿はご存知のように、
キャキャッ、キャッ、キャッと実に落ち着きがありません。
落ち着きのなさにかけては
日本の猿もアフリカの猿も変わりません。
馬はまた千里馬という言葉があるくらい、
遥かかなたまで駆けていきます。
落ち着きのない猿と
遥かまで駆ける馬に
人間の「こころ」を見たのは、
馬琴先生の発明というよりも、
中国伝来の発想かなという気もします。
いずれにしても、
「こころ」の不思議をとらえて興味深い。
「こころを離れられず 漱石、聖書、源氏物語」
の拙稿が秋田魁新報に掲載されました。
コチラです。

弊社は、明日より18日まで夏期休業とさせていただきます。
よろしくお願いします。

・シュノーケル波にストロー城ヶ島  野衾

筆一本

 

・隠れしが見られたければ現れり

ある物書きが言いました。
小説家というものは、楽な商売だ。
筆一本あれば、あとは何にもいらないのだから…。
それはそうかもしれないなぁと、
ぼんやり想像しないでもありませんでしたが、
泉鏡花を読んでいると、
いやいやどうしてどうして、
とんでもない間違いであることを思い知らされます。
むしろ、
筆一本で書くということは、
なんと恐ろしくも素晴らしいことかと。
谷沢栄一・渡辺一考編による
『鏡花論集成』は、
名だたる作家や学者たちが鏡花をどう読み、
どう評価してきたかをドカンとまとめたもので、
鏡花好きには無類に面白い本ですが、
そのなかに、
小林秀雄の「鏡花の死其他」という文章があります。
小林は、こんなことを言っています。
「文章の力といふものに関する信仰が殆ど完全であるところが、
泉鏡花氏の最大の特色を成す。
文章は、この作家の唯一の神であつた、
と言つても過言ではないので、これに比べると、
殆ど凡ての現代作家達が、信心家とは言へない。
多くの神、多くの偶像の間を、彷徨してゐる。」
文章が神。
なるほど。まさしく!
筆一本で書く、
そのことの素晴らしさと恐ろしさを、
小林はそのように表現しています。
震災が起きて、
なにをどう読もうかと思ったときに、
にわかに浮上してきたのが鏡花と源氏物語でした。
わたしにとりまして、
一つの大きな発見でした。
ここからはじめようと思ったのでした。
ということで、
次回「春風目録新聞」の特集は、
「わたしの源氏物語」です。乞うご期待!

・中を避け炎天通りの禿げ頭  野衾

ぬけがら

 

・見るだけで財布開かず帰りけり

休日、
伊勢山皇大神宮への階段を上っていたときのことです。
右手一メートル半ほどのところで
何か動いた気がしました。
階段を上りながら、
あれは蝉だったなと思いましたが、
それだけです。
帽子をかぶった初老の男とすれちがいました。
扇子で顔を扇ぎながら下りていきます。
ほんとうに、きょうは暑い!
暑くて魂が抜けていきそうです。
男はわたしに気づいていない風でした。
振り返ると、
男はしゃがみ込み
扇子の先を蝉に近づけています。
蝉が扇子にしがみついたのか、
男はそっと立ち上がり、
階段の横の植木に蝉を止まらせ、
それから階段を下り、
二、三歩下りたと思ったら、
何を思ったのか、
取って返し、
蝉に近づき何か語りかけているようでした。
小さな声で話し掛けたようでしたから、
中身までは分かりません。
が、
動作、表情、姿勢からいって明らかです。
わたしがしたことかも知れません。
それから
晴れ晴れとした様子で、
ゆっくり階段を下りてゆき
やがて見えなくました。

・スズメバチ蝉半分を食らひけり  野衾

こしらえもの

 

・炎天下鎌倉小町いらつしゃい

図書新聞に拙著『マハーヴァギナまたは巫山の夢』の
書評が掲載されました。
コチラです。
これで四紙誌に取り上げられたことになりますが、
とても勉強になりました。
ありがたいことです。
一九九二年に始まった
創作学校の一期生として門を叩いて以来、
小説とは何か、
表現とは何かをずっと考え、
安原顯さんへのご恩に報いるためにもと願い書いたものが、
このように専門の方々から
ありがたいコメントをいただき嬉しく思います。
小説はいわば「こしらえもの」。
しかし、
「こしらえもの」によってしか
伝わらないものもあります。
今度の震災は、
そのことをも気づかせてくれました。
拙著はともかく、
「こしらえもの」の詩と美と力に触れ生かされる、
それが古典といっていいでしょう。
その意味で、
源氏物語と泉鏡花は、
わたしにとって大きな発見でした。
「表現行為とは時に、
それに触れるや発狂するやもしれぬ猛毒である」とは、
恩師・安原顯さんの名言ですが、
猛毒はまた
処方のされかた次第で良薬にもなり得ます。
この世の欺瞞と偽善を剥がし
打破するのは、
いつの世も、
真実がこもった古典に如くものはない気がします。

・女連れ俄か写真家徘徊す  野衾