分からないことを

 

・チョコ好きや幾日寝ればバレンタイン

これまで自著を三冊出しました。
書いて気が軽くなることがたのしく、
読んでくださった方の感想をきくのがうれしい。
今度の
『マハーヴァギナまたは巫山(ふざん)の夢』の
レビューがアマゾンに載っていますが、
うれしいだけでなく、
いろいろ気づかされ、勉強になります。
勉強は嫌いではありません。
好きというほどでもありませんけれど。
それでこのごろ思うのは、
この日記も
そういう傾向が多分にあると思いますが、
分かったことを書くよりも、
分からないこと、
もっと言えば、
分からないことの所在を確認し、
分からなさにねらいを定め、
だけでなく、
分からなさかげんの感触を固定させずに
そのまま取り出し、
とりあえず置くために、
書いているような、
そんな気が今はします。
そこが話すときとちがっている。
話するほうが分からないまましゃべりだし、
しゃべり終えるようにも思えますが、
しゃべりだすとき、
しゃべっている途中、
しゃべり終えたときに感じるのは、
上手にしゃべることができたかどうか。
ということは、
照らし合わせるものがすでにあるということで、
上手下手のちがいはあっても、
内容はすでにある。
ところが、
書くという行為は、
どうもそうではないような。
どうもそうでは内容な。
これはダジャレ。
どう言ったらいいか。
分かることは、わたしのもの。
しかし、
分からないことは、わたしのものでない。
だから、その分、自由になれる
のかな。
わたしのもの、はつまらない。
わたしのものでないもの、
わたしの分からなさが置かれるでしょうか。
ただ見ている分からない一行が欲しくて、そのために書きます。

・バレンタイン数値気にしてチョコを食ふ  野衾