酔う

 

・ダニ食ふて壁に張り付く冬日かな

食事のとき、
いっしょに少しだけ酒を嘗めると、
美味しい。
若いときは、
少しだけにとどまることなく、
飲んで酔うことが目的のように乱暴に飲んでいました。
呑んで酩酊した果てに、
何かあるような気がしましたが、
気がしただけで、
なにもありませんでした。
鏡に向かっても、
酔っ払った自得の顔に、
真理のかけらは見えません。
見たのは、
ガニマタオヤジの〈 〉だけ。
でも翌日の夕方になるとやっぱりなにかある気がして、
勇んで泥のなかを泳ぐ具合。
ちょっぴりなつかしくありますが、
自慢できることではありません。
自堕落。
からだに、
あのころのことを忘れてしまえと願うのみ。
先日、
中条省平さんにお目にかかったとき、
すてきなワインの飲み方を教わったので、
きのうさっそく試し、
すこし嘗めてみました。
美味しかった。

・夢に見た劇団員の疎ましさ  野衾

紫式部と聖書

 

・一月の日をていねいに過ごしたり

このところ源氏物語をずっと読んでいますが、
作者の紫式部についてあれこれ想像し、
しているうちに作者が身近に感じられてもきます。
なにによらず
長編小説を読むと、
そういう特典が付いてきます。
このごろ勝手に思うのは、
ありえない想像ですが、
もし紫式部が聖書を読んでいたら、
どんなふうに読んだだろうかということ。
このひとの想像力、感性、洞察力、
明晰さをもって
聖書を読んでいたら、
どんなふうに読み解き、
何を感じ取ったでしょう。
信仰をもったでしょうか。
たとえば、
「マタイによる福音書」六章三四節。
きっと目を留め、
見過ごしにしなかった気がします。

・読書中現れ出でり冬の蜘蛛  野衾

ほんとうはなにがしたい

 

・痩せ細り断食のごと雪だるま

わたしの弟は、
中学生のころから教師になりたいと思い、
願いが叶って教師になりました。
少年時代に、
いい出会いがあったようです。
そういう弟を、
ちょっとうらやましく思っていました。
わたしにはとくになにがしたい、
なにになりたいというものがありませんでしたから。
体験しなければ何事も分からないと気負い、
今までやってきた気もします。
ほんとうはなにがしたいの?
主人公のアンヘリカは水仙から話しかけられます。
魔法のことば。
そして、ちょっとこわいことば。
したいことを問うことは、
耳を澄ましてじぶんと正面から向き合うこと。
ほんとうはだいじなこと。
ほんとうは、
一番たいせつなことかもしれない。
でも、
それを突きつめ、それをすると、
生きづらくなるかもしれない。
したいことをして
生きていければいいけれど、
世間はそんなに甘くないさを言い訳にして。
ほんとうはなにがしたいの?
丸岡さんの
『アンヘリカの選択』と
『君にシロツメクサの冠を』の紹介記事が
朝日新聞神奈川版に掲載されました。
コチラです。

・ホッカイロ使い捨て去り一回炉  野衾

全集のある本屋

 

・雪だるま一日経ってしょぼくれり

詩人の長田弘さんが、
書店でなく本屋が好きとどこかに書いていましたが、
いまは書店が多くなり、
本屋とよべるような本屋は
ほとんど見かけなくなりました。
古本屋がかろうじて本屋でしょうか。
本屋には全集がありました。
よく行っていた本屋の二階、
文庫本のコーナーの奥の一角に、
個人全集がずらりと並び、
独特の空気がただよっていました。
文庫本を二、三冊買ってからそこへ足を運びました。
ゲーテ全集は入ってすぐの棚、上から二段目、
ゴーゴリ全集はその下の棚、
本居宣長全集は左奥の下、
小林秀雄全集は正面の目立つところ。
いつ行っても同じ場所に鎮座して、
まるで村の外れの社のごとく。
手を合わせることはしませんが、
社があってこそ
村は村の魅力を湛えていたように、
全集があってこその本屋であったと思うのです。
画竜点睛を欠くということばがありますが、
全集は、
いわば睛(ひとみ)のようなもので、
ひとみのない龍は
空を天がけることができません。
お気に入りの本屋から全集が取り払われ、
わたしはいつの間にか足を運ばなくなりました。
全集のない本屋なんて、
なんて…。
場所をとる全集が、
場所をとるからという理由で取り払われた時点から、
本屋が本屋でなくなった
という見方もできるかもしれません。
本屋のない街は寂しいだけでなく、
おもしろみに欠けます。
頑固オヤジをからかう子どものこころ。
頑固オヤジのこころのやさしさ。
頑固オヤジのそばにいる楽しさ安らぎ。
全集は頑固オヤジそのものでした。

・格好よりも肌身離さずホッカイロ  野衾

オリビア・ニュートン・ジョン

 

・雪の上みんな仲良く蟻のごと

テレビをつけたら、
「徳光和夫のトクセンお宝映像!」
という番組で、
オリビア・ニュートン・ジョンの特集をやっていました。
最初から見れなかったのが残念。
小学校時代にビートルズを知ったものの、
レコードを買うほどの知恵は無く、
レコードを再生する機械もありませんでしたから、
中学生のころは、
もっぱらナショナル(現パナソニック)製のラジオ、
GXワールドボーイ(懐かしい!)で
洋楽を聴いていました。
高校に入り、
おそらくラジオで
「ジョリーン」を聴いたのではなかったでしょうか。
学校帰り、
さっそく秋田駅周辺のレコード店へ走り、
オリビア・ニュートン・ジョンのレコードを買いました。
初めて買ったレコード!
再生するための機械も無いのに。
ほとんど初恋に近かった。
仕方がありませんから、
北島三郎を聴くために
ステレオを買っていた叔父の家へ行きました。
オリビア・ニュートン・ジョンのレコードを
ターンテーブルの上に置き、
ゆっくりアームをレコード盤のふちまで運んで、
針を下ろしステレオの前に正座。
いつでも好きなときに
好きなだけ聴けるというのが画期的。
そのオリビアさん、
一九四八年九月二六日生れといいますから、
現在六十四歳。
病気もされたということですが、
最近の映像をテレビで見、
きれいはきれいでも、
顔のつくりが別人のようで驚きました。
人生をまざまざと見せられたような。
記憶のなかのオリビアさんと
目の前で動いて歌っている人が同じとはとても思えません。
なにか抜け落ちたような。
オリビアさんでなくわたしかもしれませんが。
分かりません。
オリビアさんのだけでなく、
レコードはすでに一枚も持っておらず、
CDになってからも、
オリビアさんのは買ったことがありません。
きっと、
インフルエンザのようなものだったのでしょう。

・雪道はこんな風に歩くのよ  野衾

 

アンセル・アダムズ

 

・雪しんしん積もるを恃み窓に寄る

長田弘さんの『私の好きな孤独』を読んでいたら、
ふと、
ずいぶん前に買った
アンセル・アダムズの写真集『アメリカ原風景』
を思い出し、
本棚から引っ張り出して久しぶりに頁を繰りました。
ずいぶん前だとばかり思っていましたが、
ちょうど二十年前、
そんなに昔ではありませんでした。
ソローや奥邃に重なる風景かと想像し。
この写真家も、
自然をつかさどっているものの存在に
つよく打たれていたようです。
まことに、
「書かれた文字だけが本では」ありません。
アメリカの原風景に
直に接した事はありませんが、
秋田の田舎の原風景なら
子どものころに親しく接しました。
また、ふと、
長田さんも
アンセル・アダムズが好きなのでは?と思い、
グーグルで検索したら、
『詩は友人を数える方法』の初版に、
アンセル・アダムズの写真を
つかっていることがわかりました。
「日本の古本屋」のサイトに入り、
さっそく注文。
こうして本が増えていきます。

・記録的雪の式典記憶的  野衾

戒名

 

・新春を恩師と一献ブクロにて

三冊目の自著となる
『マハーヴァギナまたは巫山の夢』の
本体価格は1957円、
税込みの定価だと2055円。
どうしてこういう中途半端な数字かというと、
1957はわたしの生まれた年だから。
また2055の下二桁は、
わたしの現在の年齢。
え? マジ?
はい。
マジもマジ、ほんとうです。
さらに、
2055-1957=98となります。
98は、
大好きだった祖父トモジーの享年。
わたしがトモジーのように長生きし、
98まで仮に生きるとすれば、
1957年に生れたわたしは、
2055年にこの世とおさらばすることになります。
そこで考えた戒名「五%税込居士」
ですから、
この値付けにはとても深い
どうでもいい意味があるのです。
ということで、
消費税増税絶対反対!!

・ホッカイロ破れ散らばり掃除せり  野衾