佐々木幹郎さんご登場

 

 朝寝してひとり残さる心地せり

今月のBook学科ヨコハマ講座「よこはま 本への旅」の
ゲストは、
詩人の佐々木幹郎さんです。
つい先だって、
弊社から『ことばのポトラック』が刊行されたばかりですが、
そもそも、
「ことばのポトラック」がどういうふうに始まり、
どういう経緯で出版に結実したのか、
どんな本をつくりたかったのかについてお話いただくと共に、
本に収録されている自作の詩を朗読していただきます。
また、
佐々木さんの
『中原中也 悲しみからはじまる』(みすず書房、2005年)
を踏まえ、
詩がいつ、どこで生まれ、
それをどのようにことばに定着させるのか、
推敲はどのように行うのか、期間は、
その過程で詩はどのように変容するのかなど、
いわば「詩の作法」についてお話しいただきます。
どうぞお楽しみに。
くわしくは、コチラをご覧ください。
当日、入場できない場合もございますので、
参加ご希望の方は、
事前にご予約いただきますようお願い申し上げます。
ご予約は、春風社への電話でもけっこうです。

  第七回Book学科ヨコハマ講座「よこはま 本への旅」
  ゲスト:佐々木幹郎さん
  日時:四月二十七日(金)午後8時~
  場所:春風社

先月三十日に行われた
第六回Book学科ヨコハマ講座の内容が、
特集記事としてヨコハマ経済新聞に掲載されました。
コチラです。

 このごろは朝風呂が好き朝寝なほ  野衾

サービスセールで得する

 

 推敲を終へて静かの桜かな

家で飲んでるコーヒーの豆がそろそろなくなるので、
帰宅途中、
横浜駅地下街にあるキーコーヒーのお店へ。
このごろそこでしか買わないために、
店のおねえさんとも顔なじみになりました。
また、
買う豆の量、分け方、
袋詰めの仕方はいつも同じですから、
おねえさんは暗記してしまったようです。
若さが羨ましい。
「ただいま、二百グラムお買い上げごとに、
お好きな豆四十グラムをサービスさせていただいております。
どれか気になる豆はございますか?
ただし、
ブルーマウンテンと、
ブルーマウンテンブレンドは対象外とさせていただいております」
あ、そ。
というわけで、
井上陽水も歌っている「コーヒールンバ」
に出てくるモカマタリを所望。
すぐに頭のなかを、
あのもかまったり歌う陽水の歌がリフレンし始めます。
わたしは別に、
恋を忘れたあわれな男
というわけでもありませんが、
しびれるような香りいっぱいの
琥珀色した飲みものが大好きです。
思いみるに、
あの歌って変。
なんたって、
「昔アラブの偉いお坊さんが」で始まるんですから。
さて、
この記事をアップしたら、
鼻歌交じりに、
今日はモカマタリにしようかな。

写真はなるちゃん提供。
秋田の我がふるさとでは、
稲の種蒔きが終ったようです。

 ニルヴァギナ手取り足取りマハヴァギナ  野衾

床屋と少年

 

 種蒔きを終へて祝ひの便りあり

交差点のすぐ手前、ヘアーサロンの看板がでている。
月に一度、気が向けば二度足を運ぶ。
今月は二度目だ。
急な階段を上って左、
「いらっしゃいませ」の札が掛かっているドアを開けると、
交差点に面した窓側から椅子が三つ並んでいる。
窓にいちばん近い椅子に、
小学三年生ぐらいの子どもが温和(おとな)しく、
ちょこなんと座っている。
こちらのソファーには母親だろうか、
開いた雑誌の頁に余念がない。
「はい。お疲れ様でした」
母親がお代を払い、
男の子はまっすぐにドアに向かい、先に部屋を出た。
「おまちどおさま。どうぞ」
ハンガーにウィンドブレーカーと帽子をかけ、
指示された真ん中の椅子までは三歩半。
わたしの散髪は簡単で、
刈るだけなら電気バリカンで七分とかからない。
電気バリカンのコードが床屋の左肘に巻かれているのもいつもと同じ。
スタイリッシュな床屋なのだ。
床屋の髪型は宇崎風のリーゼント。オートバイが似合いそう。
さて、頭が終ったら襟足。
それからリクライニングを倒し、
顔にシェービングクリームを塗る。
蒸しタオルを三枚重ねると床屋は向こうの部屋へ退き、
煙草を一本ふかす。ルールどおりだ。
やがて床屋が戻ってくると、
かすかに煙草の匂いがする。
顔から蒸しタオルが剥がされ、もう一度、
今度は泡立ったシェービングクリームをたっぷりと塗る。
いよいよ床屋一番の見せ場。
舞台俳優のように一分の狂いもない。
剃刀の刃なのに、
石鹸で顔を撫でられるように、スピーディーに剃り上げていく。
泣きたくなるぐらい気持ちいい。
うつらうつらし始めたころ、
リクライニングが起こされる。
そのときだった。
目の前の大きな鏡が
ドアを開けて入ってきた一人の少年の姿をとらえた。
だぶだぶのズボンを穿き、
足にはサンダル、
ワッペンを貼ったような少し大きめのジャンパーを羽織っている。
ずらりとコミックが並ぶラックから一冊取り出し、
体をソファーに深々と埋めページをめくっている。
少年は一言も発しない。床屋もまた。
床屋が最後に折りたたみ式の鏡を棚の上から取り上げ、
わたしの後頭部にあてた。
合わせ鏡で「よろしいですか」これもいつもどおり。
「はい」
わたしは身を起こし、
鏡の前の眼鏡を忘れずに手に持ち、
ハンガーにかけたウィンドブレーカーと帽子を取って、
釣りのないようにお代を払う。
ドアを開けて一歩、二歩踏み出し、
背中でドアが閉まろうとした瞬間、
「いいよ」床屋が言ったのだ。
いいよ。
少年に向けられたその一言に、
わたしは耳をそばだて、一瞬間だけ歩を止めた。
床屋にも、
ひょっとしたら少年のような時代があったのかもしれない。
少年は、日常のことを床屋に話したろうか。
話すことばを持ち合わせていないのかもしれない。
そのことを床屋も知っているだろう。
わたしの妄想は果てしなくつづく。
それに身を任せていたいと体がささやく。
たゆたう時にこころを遊ばせ、
我知らず、癒しの恩寵に与ろうとしてでもいるようなのだ。
信号を待ちながら、わたしは後ろを振り返り、
くるくると静かに回りつづけるサインポールを見上げた。

 桜見て豁然たらざる日暮れかな  野衾

屈光性

 

 散るさくら来年までの浮世かな

朝、眼を閉じて気功をし、
終って眼をあけると、
体が元の立ち位置から右に十五度ほどズレています。
眼を閉じていても、
窓から差し込む光を感じるからでしょうか。
それとも体の歪みや捩れ。
きのうの気功教室は、
めずらしく1501番の教室でした。
いつもはだいたい1503番か1502番。
ビルの十五階。
1503番なら部屋の右側最前列の椅子に座るのに、
きのうは左側最前列の椅子に座りました。
01番と03番は、
窓の近くで共通していますが、
02番はちがいます。
むしろ窓から離れています。
しかし、
その部屋でおそらくいちばん光の当たる、
ほかより少しだけ広い空間です。
頭で考える前に、
アリやゴキブリと同じように、
光に反応する自分に気づきます。

 年重ね抜き差しならぬ桜かな  野衾

捨てるために

 

 坂道の遠く静かの桜かな

うまくことばにできないままに書きますと、
ことばは、
コミュニケーションのためにつかわれたり、
自己表出そのものであったりしますが、
ことばはまた、
何かを捨てるために書いたり、
言ったり、
読んだりもするのかなと。
そんなふうに感じることがあります。
きのうのエピソードに光をあて、
この欄に書いてしまうと、
そのことを忘れていい気がしてスッキリします。
朝、
古典を少しずつ読む。
雑踏から逃げるような気分になることもありますが、
もっと澄んだこころで言いますと、
自分の体験と日々の暮らしを相対化し、
垢を落とすように捨てる、
日々捨てる、
蓄えるのでなく。
それが目的で読むわけではありませんが、
結果としてそうなっている。
捨てたい体、
わたしのでない、
いのちが立っています。

 鶯のほけきょと鳴きて黙しけり  野衾

よこはま村へようこそ

 

 ネジ緩み春のうららの毀(こぼ)たれり

今月刊行予定『突撃!よこはま村の100人 自転車記者が行く』
の販売打ち合わせのために、
神奈川新聞社の佐藤記者、我が社の大木といっしょに、
三人で伊勢佐木町にある有隣堂本店へ。
佐藤記者は、
肩書(?)どおり今日も自転車。
ご多用中にもかかわらず時間を割いて下さり、
こちらの思いの丈を
じっくり聞いて下さった有隣堂の加藤さん、
ありがとうございました。
「よこはまの100人」でなく、
「よこはま村の100人」としたのには訳があります。
むかしここに横浜村があったというだけでなく、
日本語の村、英語のビレッジ、
フランス語のビラージュには歴史があり、
声高に絆(きずな)と叫ばなくても、
人と人とは自ずから情愛が通いあっていた気がします。
絆という字には何の責任もありませんが、
金子みすゞの詩と同様に、
こんだけ連呼されると少々食傷気味にもなり、
フレッシュな気持ちで
人生や、
人への関心と関係の郷愁と創造を想起させる
ことばとしての「村」をえらびました。
「よこはま村へようこそ」のこころです。
歴史上の横浜村はなくなりましたが、
人と人が織り成すよこはま村は連綿とつながり、
今日も笑顔で招いています。
そういう人たちを、
そういう人たちの物語を、
この本はていねいに紹介しています。
富士には月見草、
村には自転車がよく似合います。

 そら墜ちて春爛漫の眠りかな  野衾

迷子

 

 静けさや記憶のよこの春の海

五歳? 六歳?
出戸浜だろうか
少し大きめの半ズボンを穿き
ビーチボールのタッグを手に持ち
脚をひろげ
まぶしそうな
はずかしそうな
泣いた後のような
じっさい
泣いた後だったのかもしれない
そのことを
わたしはずっと忘れていた
あの感じ
つーんと鉄のやけたにおい
セピアいろに変色していく
おおぜいいるのに
うみは近いのに
一人ぽっち
とうさん かあさん
ぼくはもう一人で生
きて
いかなければならない
ぷつりと切れて
行き場をなくし
どこへも…
そのときだ
つとむおじさんに
こえをかけられたのは
わたしはかろうじて立っている
からだの記憶
きょう不意に思い出したのだ

秋田魁新報に拙稿が掲載されました。
コチラです。

 迷子が迷子を見ている春  野衾