工藤正三先生

 

公私にわたりお世話になった山形の工藤正三先生が三月二日、お亡くなりになりました。
工藤先生に初めてお目にかかったのは、『奥邃廣録』の復刻版刊行の年ですから一九九一年、二十一年前になります。その折、新井奥邃について勉強されている一端を親しくお話くださいました。奥邃と身近に接しておられた工藤直太郎先生を紹介してくださったのもその時でした。また、先生お手製の「工藤ラーメン」を美味しくいただいたことも忘れることができません。あんなに美味しいラーメンを、ほかに食べたことがありませんでした。
私が勤めていた東京の出版社が倒産し、路頭に迷っていたとき、新井奥邃帰国百周年記念シンポジウムに誘ってくださったのは工藤先生です。
会が終った後で、先生に、これからつくる出版社でシンポジウムの内容をまとめた本を出させていただけないかとお願いしたところ、先生は、すぐに了としてくださいました。それが春風社の第一号の本『知られざるいのちの思想家 新井奥邃を読みとく』に結実しました。
おカネがなくて、私の自宅で出版社を始めましたが、山形から何度も手弁当で横浜までおいでくださいました。編集作業をしながら、先生は、ふと、「新井先生の文章を読んでいて不思議なのは、少し分かってきたかなと思うと、まだ遠い。また読んで、理解が深まったかと思いきや、さらに遠くなる」とおっしゃいました。先生の新井奥邃に関するお仕事は、研究ではなくて、徹頭徹尾、勉強と研鑽であったと思います。
自宅で始めた出版社ですが、事務所を移転し、おかげさまで十三年目に入りました。社員も九名になりました。創業十周年のパーティーにも先生は駆けつけてくださり、ご挨拶をいただきました。事前に先生が送ってくださった山形の銘酒「十四代」が置かれたテーブルは、酒好きのお客さんで立錐の余地もないくらいでした。十五周年のパーティーにもぜひと電話でお誘いすると、「そうだな。元気になって、また横浜へ行くかな」とおっしゃっていたのに、本当に残念です。
先生に教えていただいた工藤ラーメンを、私は今もときどきつくって、お客様にふるまっています。教えてもらったレシピ通りでなく、ラードを使わず、ニンニクと生姜を加えたりもしますが、基本は工藤ラーメンです。先生が横浜で初めてラーメンをつくり社員にご馳走してくださったとき、食する人ごとに近くへ寄られ「どだ? うめが? うめが? そが。それなら良がった」と体を反らせ、「ほうっ、ほうっ、ほうっ、ほうっ」と、破顔一笑された姿が目に焼きついています。
工藤先生のおかげで、春風社の土台が築かれました。しっかりした土台です。その上に重ねてつくった本が四百冊を超えました。これからも一冊一冊、勉強と研鑽を怠らず、人様の栄養になる本をつくっていきたいと思います。
新井奥邃の「予死せる時に対し友に望むの書」のなかに、次のような言葉があります。「予の死を哀む者なき限りに於て予は誠に後顧の余念なく自由に悦んで往くべきに往かん」
工藤先生、ありがとうございました。
ご冥福をお祈りいたします。