ありがたい手紙 2

 

 パソコンも車も飛びし野分かな

引きつづき高橋さんからいただいた手紙を掲載します。
また、先週十六日の『週刊読書人』に、
「小関与四郎写真集『クジラ解体』刊行に寄せて」
が掲載されました。
コレです。
作家の山本一力さん、詩人の佐々木幹郎さん、
ジャーナリストの小関新人さんが原稿を寄せてくださいました。
あわせてお読みいただければ幸いです。
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『クジラ解体』というタイトルから、水揚げされたクジラが食品など様々な用途に応じて解体され、切り崩されていく過程をつぶさに記録した写真集なのだろうと思っていた。勿論あの『九十九里浜』の写真家のことだから、客観的な記録というだけでなく、クジラの解体作業に従事する人々の姿が生き生きととらえられ、人と動物との真剣な交渉が威厳すら伴って提示されるに違いない。そんな予想を抱いていたのだが、見終わった後、どうもそんな簡単なものではないという気がしてきた。
クジラの巨体の傍らで、せわしなく立ち働く人間の姿は、小さいけれど力強く、その労働には活気が満ちている。写真家は、誇張やセンセーショナリズムには黙って背を向けて、日常に近い生活の現実として、クジラ解体の様子を記録してみせた。人間の営みをまっすぐ、かつ、おおらかに見つめ、原初の輝きを取り出してくる写真家の目線。被写体にぐいぐい迫りながら目前の光景をダイナミックにとらえてみせる写真家の膂力。『九十九里浜』で十分堪能できたこの写真家の持味は、今度もいかんなく発揮されている。
「ありのままの姿を正面から見据えて記録するのが私の信条」だと写真家は本書の序文で語っている。(この文章は、小関氏の人間を感じさせるもので、だ・である調とです・ます調の間を揺れ動くその波動のような変化が面白い。)「『事実は事実』の記録として残し伝えたい」という主張は、それ自体はよく納得できるのだが、にもかかわらず、この写真集は、クジラの解体作業を写真による一種のルポルタージュとして克明に追ったものというだけでは足りない何かを読者に感じさせる。
たしかに、この写真集は、記録的な価値においても高いものである。捕鯨制限によって現在では行われていないマッコウクジラの解体作業を今から25年前に和田浦の現場に取材し撮影した写真が収録されていることをはじめ、捕鯨の是非を論ずる前に、何が行われてきたのかを知るための記録として、貴重な資料を提供している。
しかし、ルポルタージュなら、写真を通じてもっと多くの情報を伝えてもよいはずである。そのためになら、別の方法で(例えばカラーで、もっと接写を多くして、プロセスごとに・・・)撮影することもできるはずである。ところが、この写真集の著しい特徴は、非説明的である点にある。
それは読者に不親切ということではない。本としては、捕鯨をめぐる現状の簡潔な要約が帯に記され、また巻末には捕鯨論議の経過を俯瞰して読者の理解を助ける解説文も付されており、読者を十分配慮したものとなっている。巻末にあらためて収録作品を一覧化し、いくつかの写真には撮影内容についての解説も付いている。
そうでありながら、ここに収められた写真そのものは、ときに意味とか文脈を剥ぎ取られた裸の現実として、見る者に迫ってくる。日常の意識の中にせり上がって来る言葉は一旦はじき返され、不用意に言葉を発すれば嘘になりかねない失語状態を受け容れながら、まずはじっくり作品を見つめるしかないという気分にさせられる。そこで、地べたに座り込んで何度も繰り返し頁を繰る。そうするうちに、この写真集には、被写体を鮮明に写し取ろうとする目の働きとは違った働きがあることに気づく。それは傍観しながら記録する目であるより、狩猟者のように動いている目である。
過程の記録なら、写真家の存在は消してしまったほうがよい。それであたかも客観性が保証されるかのように。ところが、この写真集は、目の前の現実に価値判断を交えて潤色しないという意味では客観的であるが、フィルムに定着された画像には、撮影している写真家の息遣いや胸の高鳴り、すばやく反応する肉体、未知の映像を予感して膨らむ血管など、言わば獲物を追う人の静かな熱と動きの跡が、いたるところに感じられるのである。中にはまさに撮影中の写真家自身の影が、写りこんでいる写真もあって、とても象徴的に思える。写真家は目前の現象の外にはいない。
冒頭の数頁を見ていると、拡大され粒子の粗くなった写真が、ときに微妙にピントのブレを生じていることに目を引かれる。映像が焦点を結んで固まってしまわずに、わずかな揺れをはらんでいる。本書を開くと、滑らかな冷たいレンズを感じるよりは、画像のザラっとした肌合いの中から、かすかな熱が伝わってくる。
クジラ解体の写真に入る前に、捕鯨が古くから行われてきた土地の景色が紹介される。この写真集は、構成がすばらしいのだが、そのことは、この最初の数頁でよくわかる。空中に浮かぶ大きな親子クジラの像。視界を圧倒しながらもどこか虚ろな感じが漂ってきて、この虚ろさもまた捕鯨の町の現実の一部なのかと問いたくなる。息をつめて頁を捲ると、無数の皴が刻まれ複雑に折り重なる岩場の向こうに海や入江が広がる。実際には行ったことがないのに、夢で何度も見てすでによく知っている風景のような気がしてくる。見ているうちに、思いがけず古い時代からの便りを受信したような心持で、ふっと気が遠くなり、胸の内がザワザワし始めた。白黒のせいか、全体に過去の雰囲気を帯びていて、収録されている写真の多くが、ここ1,2年の比較的最近のものだという事実が意外に感じられるほどであった。
この後、町の中、海へ向かう路地の写真が続き、映画の導入部のように、読者をクジラの水揚げ現場へといざなう。この写真もまた揺れをはらんでいるが、それが読者である自分自身もこの道を小走りに進んでいこうとしているかのような感覚をもたらす。そこには出会いの予感がある。巧みな写真構成が心地よい緊張感を持続させる。