浮き

 

 夏の朝机上蟻蟻蟻が這い

今月三日、新幹線で秋田へ向かう車中でのこと。
わたしは通路側の席でしたが、
通路を挟んだ隣に、
襟高の白いシャツ、折り目正しい黒のズボンを身につけ、
ピカピカに磨いた黒い靴を履いた
色白の男性が窓際に座っていました。
男性の横、つまりわたしのすぐ隣のシートには、
黒のダレスバッグが鎮座しています。
男性は耳にイヤホンをつけ、手に文庫本を持ち、
ケータイは窓の縁へ、ペンケースと縦に並べて置いています。
男性とわたしは、車輌の後ろから二番目のシートでした。
一番後ろは三席しかなく、
男性の後ろのシートはどういうわけか、
一人掛けの座席になっています。
ドアの近くなので、
スペースを確保する意味でもあるのでしょうか。
発車数分前のこと、
初老の男が、連れの家族を離れこちらにやって来ます。
空いている一人掛けの座席に座ろうとして、
手を前のシートの背にかけたため、
シートが少し揺れました。
くだんの男性は、ちょっと後ろを振り向く風情で、
あからさまに嫌な顔をしました。
車掌が来た折に初老の男は、
他の客が来たら、自分の席に戻るからと車掌に告げ、
一人掛けのシートを確保してしまいました。
色白の男性はその話に耳を傾けていたのか、
チッと鋭く舌を鳴らしました。
イヤホンはいつの間にか耳から外れています。
十二時五十六分、
新幹線は時刻どおり発車しました。
わたしは、持って来た文庫本を開き、目を落としました。
十数ページ進んだ頃、
男の子が「おじいちゃん」と叫びながら通路を駆けて来、
初老の男の膝に乗りました。
色白の男性は露骨に嫌な顔をし、
今度ははっきりと体を後ろに向け、
抗議の気持ちを言葉でなく男に伝えたようでした。
男は孫に、
うるさくしては駄目だよと申し訳程度に耳打ちしています。
しばらく遊んで飽きたのか、
男の子は祖父の膝を下り、
タタタタタ…と車輌中ほどの自分の席に帰っていきました。
男性は、魚にからかわれる浮きのように、
なかなか落ち着くことができません。
と、
また男の子が「おじいちゃん」と叫んで走ってきました。
さっきよりもテンションが上がっています。
新幹線の旅に飽きたのかもしれません。
勢いのまま男の膝に上がろうとしましたから、
前のシートの背にぶつかり、ちょっと鈍い音がしました。
色白の男性の顔には紅い斑点が浮き出し、
立って後ろを振り向いたかと思うと、
一言「なにしてんだよううううううっっ!!!!!」
男は男性に謝りもせず、
歯向かうでもなく、
だまって孫を抱え、元の席に帰っていきました。
魚は離れてしまったのか、
浮きはもうピクリと揺れることもありませんでした。

 いそいそと野毛坂下りて泥鰌鍋