ふるさと

 

 秋の日のコーヒー豆をガリガリと

小椋桂さんの歌に「野ざらしの駐車場」があります。
懐かしいはずのふるさとが
どうしようもなく変ってしまって、
もどるすべはないものか、
変ってしまったのは、
ふるさとでなく、
むしろ、
わたしの方ではないのか、
というふうにもその歌詞は受け取れます。
ふるさとは、
故郷と書いたり、
古里とも書きますが、
わたしにとってはまた、
小椋さんの歌と同様、
「経る里」でもあります。
いま、
拙著『父のふるさと 秋田往来』の校正をしながら、
第三章にある「夢」を読み直し、
この章がこの本の臍だと感じました。
臍は、考えてみれば
母と直につながっていたことの痕跡に過ぎず、
ふだん無聊にまかせ臍のゴマをとり、
その臭いに辛うじて母との紐帯を切なく、
懐かしく、
また愛しく思い出す程度の
あってもなくてもいいようなものですが、
ふるさとの哀しく懐かしい思い出は、
夢の中でこそそのリアリティーを発揮できる
ような気がしてきました。
「夢」を独立した章にすべきではないか、
と提案してくれた
編集長ナイ2君に感謝しています。

 一夜明けブイヤベースの秋となり

100801_1602~0001